自然状態というフィクション――報復権は死刑の根拠たりうるか(2)

 前回、死刑制度の話を「ちょっと時期遅れの話題」として書きましたが、あとで『論座』2008年3月号でも、「死刑論議の病理」という特集が載っていることを知りました。井上達夫さんとか浜井浩一さん、芹沢一也さんなどが論文を寄せています。つまり、少しも時期遅れではなかったということのようです(エヘン!)。
それに気がついたのは前回のエントリーの直後でしたが、『論座』を手に入れたのは18日(まだほとんど目を通していません)、そして、前回のエントリーのコメント欄で問題になった駒村圭吾さんの『SAPIO』論文を手に入れようと大学の図書館に行ったのが、ようやくきょうの火曜日です(なにせ1年で最も多忙な時期ですから)。試判定会議等の会議のあいまをかいくぐって図書館でコピーしてきました。
こうして、せっかく手に入れたのですが、『論座』で期待していた井上達夫さんの論文は評論家の粗雑なコメントと対して変わらず、がっかり。また駒村さんの論文は論理的には破綻したり飛んでいたりしているものでしたが、それよりも宮崎哲弥さんの紹介がいい加減なものだったことも分かりました。今回は、前回のエントリーの続きですから、駒村さんの論考を取り上げたいと思います。
まず、駒村さんは、光市母子殺害事件の被害者遺族が「もし死刑にできないなら、今すぐ犯人を社会に戻してほしい。自分の手で殺します……」と発言したことを取り上げ、その報復権の要求が、死刑存廃の議論や国家の刑罰権独占そのものに関する議論で十分検討されていない、「自然権としての報復の代行」という論点を突きつけていると述べます。これが論点の第一点です。第二点として、被害者遺族は刑罰権の行使に関与することを求めているのであり、現行の被害者遺族救済制度では被害者遺族の報復感情を慰撫できない。報復感情を慰撫できる社会文化的な環境を作り上げる必要があるというものです。第三点は、報復権の要求は、近代刑法の原則である、犯罪者を更生・矯正し二度と罪を犯させないようにするという目的刑論に対する疑念、犯罪者を更生・矯正できているのかという不信の表明であり、近代刑法では退けられた応報刑論の復権要求であるのだから、報復権を否定し応報刑論を退けるには、納得できる目的刑のあり方を提示しなければならないというものです。そして、最後に、現に死刑制度は存在するし、死刑も執行されているということを前提に考えるなら、犠牲者と死刑囚の二つの「死」の鎮魂となるような「修復の文化」を育む必要があり、そのような修復の文化こそが報復権の主張を沈静化させるだろうと述べて終わっています。
論旨は追いにくいのですが、最後まで読めば、この論考が、死刑存廃の議論をしているのではなく(死刑は目的刑論の原則からすれば、それから外れた「例外」であって、したがって第三の論点は死刑とはそもそも無関係のものです)、被害者遺族の報復感情を慰撫し報復権の主張を沈静化する必要があるという主張であることが分かります。そして、駒村さんは、死刑囚のみならず死刑執行人にとっての死刑の過酷さ・非人間性をも挙げ、被害者遺族にとってたとえ死刑になっても満たされない感情が残ること、死刑に見られる過酷さは死刑執行を被害者遺族に委ねても変わらないということを述べています。つまり、駒村さんの議論は、宮崎さんがそう捉えようとしているような、報復権を死刑存続の根拠にするような議論ではないということです。というより、駒村さんは報復権自然権とするのには無理があることを示唆し、現実に報復権を認めることも無理だとしています。一言でいえば、駒村さんの主張は死刑存続でも死刑廃止でもなく、現に死刑が執行されていること(そして報復権が否定されていること)を前提として、それを続けるには被害者と死刑囚のふたつの「死」を鎮魂する「修復の文化」が必要だといっているだけです。
 宮崎さんの紹介は、駒村さんの論点の第一点だけを取り上げて、自然権としての報復権がその「報復の代行」としての死刑を正当化するという主張に見せかけているのですが、この駒村さんの第一の論点こそが、この論考で最も破綻しているところになっているのです。駒村さんは次のように書いています。

 そもそも国家の成立は、自然状態の失敗に対する恐怖に由来する。自然状態とは、人間が、自己利益と自己保存本能を無制限に行使する状態を言い、ホッブスがこれを「万人の万人に対する闘争状態」と呼んだのはあまりにも有名である。このような地獄から脱出するために、国家が設営されたとすると、国家は、自然状態における暴力を、正当か不当かを一切問わず、すべて剥奪することを最初の仕事にするはずである。……死刑を典型とする刑罰権の独占は、国家を国家たらしめる象徴的機能なのである。
 自然状態において人間が有していた自由を「自然権」と呼ぶことがある。右のストーリーが正しければ、私たちが国家に奪われた自然権の第一は、報復権であることになる。……
 もっとも、報復権自然権であるかどうかは議論の余地がある。そもそも、国家成立以前に自由にやれたことの全てが直ちに自然権として正当化されるわけではない。自然権といえるには、自然法という「法」のめがねにかなっていなければならない。自由がそのまま自由権になるわけではないのである。また、報復権自然権ならば、殺害権も国家成立以前の自由として承認されるはずであるが、それでいいのか。この点、殺害は単なる暴力であるが、報復は、加害者と被害者の人格的対等性を拡幅する道徳的営みと評価できる余地があり、その限りで「法」のめがねにかなうところがある。

 自然状態の説明のところで、駒村さんがホッブスの名前を挙げているのは、ボッブス以外、たとえばホッブスに「自然状態」というアイディアを提供したギリシアエピクロスも、ホッブス後のロックも、「自然状態」を「平和状態」としており、ただ一人ホッブスだけが自然状態を「万人の万人に対する戦い」としているから、当然でしょう*1。しかし、その後の「報復権」の議論は、ホッブスとはまったく無関係の議論です。私も、ホッブスなんかは拾い読みしたことしかないのですが、ホッブス自然権の基礎は(これもエピクロスから来たものとされている)「自己保存」、すなわち「生きるために自分の身を守る自由」です。ホッブスにすれば、「殺害権」のほうが自然権であり、「報復権」などは自分が生き残るために何の関係もないから自然権ではないのです。つまり、水や食糧や土地など生存のためのものの量が限られていて、しかも対等・平等な人間が大勢いるとき、そこに競合・競争・闘争が起こり、他の対等な人間を退けても自分が生きるためにそれらの稀少なものを確保しようとするだろう、それが「万人の万人に対する戦い」というわけです。つまり、自分が生きるために他人を殺害するのはホッブスにとって「第一の自然権」であって、自分が生きるためではない「報復権」は自然権でもなんでもないのです。しかし、人間は理性をもつ動物です(自然状態でも人間は理性的な動物とされます)。そこから自然法ホッブスし「理性の戒律」と呼びます)が導かれます。つまり、人が殺しあう悲惨な自然状態にあっても、理性のある人間は、その戦争状態が自己保存のための食糧生産・食糧確保の妨げになる(おちおち畑など耕してなどいられない)ことを理解して、自然権を放棄するとホッブスは言います。ホッブスの挙げる「第一の自然法」は、「平和を獲得する希望がある限り、それに向かって努力せよ」というものです。そして「第二の自然法」は、「平和と自己保存のために、自然の権利(=自己保存のために他人を殺す)を放棄せよ」というものになります。自然状態の概念は、ホッブス、ロック、ルソーそれぞれ異なっていて、駒村さんが新しい自然状態の概念を作ってもかまわないのですが、ホッブスの名前を挙げて、「自己保存」を「自然権」としているところを見ると、ホッブス流の自然状態なのでしょう。となると「法」(=自然法)のめがねにかなったものだけが「自然権」として認められるのではなく、「自己保存」の自由からくるのが「自然権」で、理性の戒律である「平和の命令」によって放棄させられるのが「自然権としての殺害権」といったほうがいいでしょう。そして、いずれにしろ、「報復権」は自然権でも自然法でもないわけです。
 ホッブスが契約によって強制力をもつ国家を創り出すことが必要だとしたのは、平和を作れという理性の戒律(=自然法)によって他人を攻撃する武器を放棄したとしても、その平和は脆弱すぎる(いつ生存するための戦いが始まるかわからない)という欠陥があるからでした、つまり、より持続する平和のために契約(社会契約)による共通権力=国家というオルタナティヴを選択するのだというのです。
ホッブスの国家は、平和のために暴力を独占するのであって、「報復の代行」たる刑罰権のために暴力を独占するわけではないのです。もっとも、ホッブスのいう「平和のために暴力を独占する国家」が必要という議論も、前回のエントリーで書いたように、説得力はありません。歴史的形態としての報復は「暴力の互酬的交換」という制度として現れます。その具体的な例のひとつが、前回のコメント欄で紹介した、「国家なき」ヌエル人社会のような血讐の制度です。すなわち、

「血讐」とは、たとえば、4世代ほどの上の、一人の曽々祖父の子孫たちからなる親族集団の一人が殺された場合、その親族集団の成員は、加害者側の同程度の親族集団の誰かを殺す義務が生じるという報復の制度です。この場合、被害者側の親族には、被害者と会ったこともない者も含まれますし、また報復は、加害者に対してではなく、加害者の親族集団(この中には加害者にあったこともない者も含まれます)の誰に対してもいいのです。もちろん、そのままでは暴力の連鎖が起きる恐れがありますが、それを防ぐためにヌエル人社会だと、「和解儀礼」と「賠償」という制度が用意されています。その和解の席上で、被害者側の親族集団の人々は、「私たちの求めているのは、加害者側の命であって、賠償ではない」と、賠償を受け取ることを拒否しなければなりません。そして、最終的には調停役の首長(司祭)の「賠償を受け取らないと呪詛するぞ」ということばによってしぶしぶ受け取ります。人々はほとんどその呪詛の力を信じていないのですが、それをきっかけとして、「加害者側の集団の命」をあきらめ、賠償を受け取るわけです(そうしないと自分たちも「報復の連鎖」に巻き込まれてしまいます)。

この制度は被害者遺族の「感情」からでも自己保存という自然権からでも説明がつかないでしょう。そして、もちろんそれは「自然状態」でもありません。それは秩序を作り出すための「命の交換の命令」という「法」として出現したものであり、そこには「自己保存のための殺害」や「報復の連鎖」を抑制する装置がともなっています。このような「暴力の互酬的交換」の制度における「報復」(交換の命令)は、王国などの国家の成立によって変わります。つまり、王権の成立に伴い、報復という「暴力の互酬的交換」が禁じられます。その禁止は、互酬的交換から「暴力の集中=再分配」へとシステムを変換させるためのものだというのが、私の修士論文の1つの章での議論でした。その「暴力の集中=再分配」の歴史的形態の一例が、主君による「あだ討ち」の許可です。勝手に報復してはならず、(報復権という用語を使うならば)報復権はいったん王に独占され、王から臣下に再分配されるわけです。この禁止は「王による平和」の創出ですが、それ以前に、王国・国家なしに「平和」を持続させる制度として「報復」という制度が作られた(そしてそれは「自然状態」などではなく、「国家」なしの「自然状態から社会状態への移行」というストーリーとして叙述できる)というのが、私の主張でした。前回、コメントに書いたことを繰り返せば、

「報復の連鎖」という自然状態のフィクションから論理整合的に導かれるのは、社会契約説のように、国家による暴力の独占という制度だけではないということを言いたいだけなのです。……現在あるひとつの制度を正当化しているフィクションから、(それがフィクションだと批判するのではなく)論理整合的に別の制度をも導くことができるという指摘は、死刑制度に限らず、オルタナティヴな制度を想像するときに重要だと思います。そして、人類学的知見は、それがフィクションだという実証をするためではなく、その別の制度を想像するときにとても参考になるということを述べていたわけです。

ところで、これは、「悲しみの聖母」さんのコメントに対するコメントとして書いたものですが、「悲しみの聖母」さんは、コメントで、「駒村論文には血讐、敵討ち、報復の連鎖にも言及があったはずですが」と書かれていましたが、駒村さんの論考にはそのような話はありませんでした。

*1:ルソーの「自然状態」は、「社会契約説」からはみ出しているもので、ここでの議論にとってまったく異質なものなので無視することにします。