報復権は死刑存続の根拠たりうるか――ちょっと時期遅れの話題

 1月21日のエントリーで、「そろそろブログを書いておかないと、1月のエントリーはゼロってことにもなりかねないので」と書きましたが、やっぱり1月のエントリーはそれだけで終わり、もう2月も中頃になりました。きのうで4日間の大学の独自入試の業務も終わり、締切も過ぎていた論文ひとつをきょう仕上げて、一息ついているところです。けれども、また2月の下旬は、推薦入学面接や大学院の入試があるので、そろそろブログを書いておかないと、2月のエントリーはゼロってことにもなりかねないので。
 大学教員が1月から2月にかけてこれほど忙しいことはあまり知られていないために、ときどき授業がなく休みが多くていいですねなどといわれてしまいます。大学教員は授業のない時期のほうが忙しいくらいだと声を大にして言いたいところですが、よく冷静に考えれば、大学教員は1年間をトータルすれば基本的には暇であることは間違いないので、言わないことにしましょう。
 
 さて、昨年末のニュースで気になったのは、『毎日新聞』の次の記事でした(なんてのは去年の暮れにやればいいのにね)。

死刑判決:07年は47人…80年以降最多 厳罰化傾向

全国の裁判所で今年死刑を言い渡された被告が47人に上り、最高裁にデータがある80年以降最多だったことが毎日新聞の調べで分かった。拘置所に収容されている死刑確定者も107人に上り、年末としては戦後最多となった。被害者感情を重視し、厳罰化傾向が進んでいることが背景にあるとみられる。

 昨年の12月には国連で死刑執行停止の決議があったが、日本国内ではアメリカ合衆国も中国も死刑をやっているという論調で(日本では外国はこの2つしかないかのようです)、あまり問題にもならず、その後、鳩山法相のもとで死刑執行が進められています。
 ジークムンド・バウマン*1は、1999年刊の『政治の発見』*2において、合衆国の大統領選挙や議会の選挙で、死刑拡大がほとんどの選挙公約のトップに掲げられ、死刑への反対は政治的な自殺行為を意味するようになってきているが、このような厳罰化は、グローバル化と社会の液状化による生活の不安定性や不確実性という目に見えない脅威を、実体的で目に見えるものとして言及することができるセキュリティに対する脅威へとすり替えているのだと指摘しています。そして、バウマンは、「街路灯の下で何かを探している男に、どうしたんですかと聞くと、お金を落としたという。一緒に探してあげようとして、ここで落としたんですかと聞くと、いいやそうじゃないけどここのほうが明るいからと答えた」というジョークを引き合いに出して、社会の液状化による不安をセキュリティに転嫁するのは、このジョークの男の論理と同じだといっています。つまり、「凶悪な殺人犯」や「外国人」「移民」「若者」など、実体的で目に見える「原因」に言及するほうが、不安定性と不確実性を生み出すグローバル化ネオリベラリズム体制といったものよりも、明るくて探しやすい場所だというわけです。そして、この「すり替え」という指摘は、アメリカよりも日本にもっと当てはまります。他の多くの先進国では実際に犯罪が増えているのに対して、すでに犯罪社会学では常識になっていると思いますが、日本では犯罪は増えておらず、凶悪化もしていないからです。
上の記事では、死刑判決の増加の背景に「被害者感情」を重視しているとあります。たしかに、厳罰化をいう人たちは、たいてい「被害者感情」や「被害者の権利」に言及します*3。この「被害者中心主義」が強まった理由の一つは、報道や裁判でこれまであまりにも被害者がないがしろにされてきたからであり、ある意味では正当なものです。
 もうひとつの理由は、「被害者感情」以外に、死刑存続や厳罰化の根拠がないということがあります。この場合は、バウマンのいう、社会の液状化による不安を目に見えるセキュリティの不安にすり替えることによって*4、まず死刑や厳罰化という欲望が生まれ、その欲望の根拠として「被害者」がだしに使われているということになります。「被害者感情」以外に根拠が希薄だというのは、死刑制度を支持する理由として挙げられる「死刑には威嚇作用があり、殺人の抑制に役立っている」ということが死刑廃止の国が増えるにつれて実証されずにほとんど疑問視されるようになったからです。あとは、「殺人者も自ら罪を償うべきだ」という正義感と、「世論が支持しているから」という理由くらいしか残らないわけですが、「世論の支持」というのは理論的な根拠にはならないし、「自ら償うべき」というのも、命をもって償うべきということには必ずしもならないからです*5
 もちろん、「被害者感情」というのも、理論的な根拠とするには無理があります。すべての被害者が同じ感情をもつとは限らず*6、また「被害者の家族」の心情を考えれば、ほとんどの殺人だけではなく、傷害致死や業務上過失致死などの場合も、極刑を望むのは当然のことになります。つまり、被害者でもないのに、メディアや評論家が被害者を代弁して「被害者感情」を根拠にするのは、やはり「すり替え」だというべきでしょう。
さて、「被害者感情」を死刑の理論的な根拠にはできないといいましたが、評論家の宮崎哲弥さんが、やはり昨年末に『産経新聞』に、「死刑論議の最前線」という評論を書いています。そこで、宮崎さんは憲法学者駒村圭吾氏が『SAPIO』12月12日号の特集「『21世紀の死刑』大研究」で述べている論考を引きながら、つぎのように言っています。

駒村氏はまず自然権(人間が国家成立以前に持っていた自由)のなかに報復権が含まれ得ることを認める。しかし、報復権は国家の成立によって、個々人から奪われてしまう。「万人の万人に対する闘争」「暴力の連鎖」という状態から脱却するために、暗黙の裡(うち)に社会契約が結ばれたと説明される。その代わり、国の方は個人の報復権を代理で履行する義務を負ったと解するのである。
駒村氏はいう。「したがって、死刑は、国家が、報復権を本人になりかわり、適正かつ安全に代行する制度であるといえよう」
私は公法学者がどうしてこの理路の存在に気づかないのか、ずっと怪訝(けげん)に思ってきた。無論、自然権も社会契約説もフィクションに過ぎない。しかし、近代の諸制度にとっては不可欠なフィクションでもある。駒村氏の論示によって、死刑の存廃を問う議論が少しでも「進化」することを望む。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071219/acd0712190918002-n1.htm

 私は、駒村さんのその論考を読んでいませんが、人類学者として*7、この理路は怪訝なものに思えます。というより、ここでの議論は、まず死刑存続という欲望があり、その根拠を懸命に探した結果、「被害者感情」という根拠のバリエーションとして、「被害者感情」よりも理論的根拠になりそうなものを「報復権」に見つけたというものに見えます。
 もちろん、ネットでの意見にあるように、「殺人者がすべて死刑にならない以上、報復権は死刑の根拠にならない」と言いたいのではありません。このような意見は、近代の社会制度を根拠づける「フィクション」としての「自然状態」論ということを理解していない批判でしょう。私の言いたいのは、そうではなく、このフィクションから導き出せる制度は、「死刑」だけではなく、「敵討ち」や「血讐(報復)」もまたこのようなフィクションから導かれる社会制度の一つだということです。つまり、自然権としての「報復権」というフィクションを認めたとしても、それはただちに「死刑」の制度的根拠にはならないのです。それがどのような制度であるのか、その一例として、詳しくはエヴァンズ=プリチャードの『ヌアー族』(平凡社ライブラリー)か、私の本『構造主義のパラドクス』(勁草書房、もう絶版だけど)の第4章「報復闘争と暴力」を読んでいただきたいと思います。そうすれば、実際の「血讐(報復)」が、「国家が報復権を独占して、本人になりかわって適正かつ安全に代行する制度」である「死刑」の前段階などではなく、同じように自然状態での「暴力の連鎖」という状態から脱するための「制度」であり、また、被害者感情から生まれたものではなく、逆に、その「制度」が「被害者(の親族)感情」なるものを生み出したことがわかるでしょう。もう十分に長くなったので、それについて述べるのはやめますが、もしリクエストがあれば、次回のエントリーにでもそのエッセンスを紹介しましょう。

*1:バウマンについて、その著『コミュニティ』の訳者である奥井智之さんは、「訳者あとがき」で、奥井さんがバウマンの『社会学の考え方』を訳した1993年の前には、その名前すら知っていなかったと書いています。奥井さんは私より4つ下ですが、私より上の年代の人類学者なら、バウマンの名前は、山口昌男さんの『文化と両義性』(1975年)のなかで、『プラクシスとしての文化』の著者として(そして「記号学者」として)紹介されているので知ったのではないでしょうか。私もそうで、それ以来気になる研究者でしたが、80歳近くになってこれほど人気になるとは思いませんでした。

*2:isbn:4818814342

*3:殺人の被害者はもちろん殺された人ですが、被害者の親族も最近では被害者とされます。そこに愛する人を奪われたという被害があるからですが、家族内・親族内での殺人も多いわけで、この場合は、残された家族は加害者の親族でもあり、

*4:そのすり替えによって発明されたのが「体感治安」ということばです。

*5:無期懲役」だと15年もしないうちに仮釈放で出てくるから、償いにならないという意見も聞きますが、浜井浩一さんが言っているように、最近仮釈放は著しく減少し、仮釈放となるものも刑務所在所期間が30年と長期化していて、運用上は終身刑化しているのです。

*6:ここではよくある言い方にしたがって「被害者」といっていますが、殺人の被害者は殺された人であるはずです。ところが、最近では、殺された人の家族や親族も「被害者の家族」や「遺族」ではなく、「被害者」と呼ぶようになりました。それは、ひとつには上で述べたように、これまで警察や司法もマスメディアも被害者の家族に対して配慮してこなかった現状があり、それを変えるには「被害者の家族」よりも愛する人を奪われた「被害者」として訴えるほうが有効だったからでしょう。しかし、通り魔のような見知らぬ者によって殺されるケースは少数で(報道は大きくなりますが)、ほとんどの殺人が顔見知りによるもので、家族内・親族内の殺人も多い(これも、殺人にいたるほど愛憎の関係があったということですから、統計を見るまでもなく、当然なのですか)ことを考えると、被害者の家族を被害者と呼ぶ「被害者中心主義」は、殺人のうちの多くのケースを扱えなくなります。

*7:私の修士論文の中のひとつの章は、アフリカのヌエル人(ヌアー人)の血讐(報復)を、秩序を作り出す「交換」として解釈するという議論でした。