病人や障害者が「受益者」なのか

 あけましておめでとうございます(もう3週間も過ぎてしまいましたが)。今年もよろしくお願いします。
 きょうでセンター試験の試験監督の業務も終わり、ほっと一息つきたいところですが、1月から2月にかけては、大学教員、特に私立大学の教員にとって1年で最も忙しい時期に当たります。私の今年の例で言うと、1月末までに卒業論文を20本、博士論文を1本、修士論文をたぶん3〜4本、審査のために読まなくてはなりません。そして、定期試験の試験監督をしながら、340枚の答案を採点し、レポートを30本読んで、6科目の成績をつけます。このうち、終わったのは、卒論の15本と博士論文1本を読むことだけです(修士論文はまだ提出日前です)。あと10日間で残りを片付けなければなりませんが、それだけではなく、今年は1月末締切の論文・報告書の原稿が3本あります。なんでこんな忙しい時期の締切原稿を引き受けてしまったのかという気にもなりますが、年度末に向けて例年そんなものです。分かっているのですから原稿などもっと早く着手すればいいようなものですが、これがなかなかそういう気にはならないのも、いつものことです。
 これらのことを全部できるのかというと、それは無理というものです。そこで、もうすでに論文の原稿1本を書かないと堅く決心しました(編集者の人がこのブログを万一読んでいるかもしれませんので、あわてて付け加えますが、書かないことを決めたのは別の原稿ですのでご安心を)。
 ということで、年が明けてそろそろブログを書いておかないと、1月のエントリーはゼロってことにもなりかねないので、愚痴も含めて書いてみました。
 ところで、今年の1月は、私生活においても、入院していた家族の転院といった出来事がありました。そういうこともあって、小泉改革の一環としてなされた近年の医療制度改革についていろいろ書きたいこともあるのですが、ここでは最も気になることを一つだけ。それは、介護医療制度や障害者支援制度を含めた社会保障制度の改革という文脈で、「受益者負担」という用語が公然と使われていることです。受益者負担で不公平をなくすという言い方もされます。そこには、人々が感じている不公平感を梃子に、医療費全体を押し下げようとする意図があるわけですが、病者や障害者を「受益者」と呼ぶことによって、不公平感を創りだし、社会的連帯をなくしていく機能を果たしている気がします。そこで創りだされている不公平感って何なのでしょうか。普通の人のように動けること、健常者がふつうに一人でできることが支援でできるようにすること、このことが、自分の受けていない利益を彼らが受けていることになるのでしょうか。実際には、治療や社会保障を受けたとしても、病者や障害者はまだ苦しんでいる弱者であるのに、です。
たとえば、准教授が自分とほとんど同じ給与を受けていることに腹を立てた教授が、自分の給与を増やさないのなら、准教授の給与を減らせと要求することがどこか変だと感じる感覚がなくなっているのでしょう。他人が自分と同じようなことができないと気の毒にと同情するけれども、実際に自分と同じことができるようになったり、それを当人たちが要求したりすることには我慢できないというわけです。
病者や障害者や弱者の「自立」支援という言い方にも問題を感じます。この「自立」は、健常者がふつうにできることをサポートによってなんとかできるようにすることとは異なり、経済的な自立ということを意味しているからです。街に出たり買い物をしたりするという、健常者にとって当たり前のことをできるようにすることは、たとえ経済的に「自立」できなくても支援すべきことでしょう。自分が当たり前のようにできることを、それができない人たちに対して社会保障制度によってお金や人を遣って少しはできるようにすることを「受益」と呼び、「不公平感」を感じるようにすることが、社会というものをなくしていくんだろうなと感じる新年でした。