樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』を読む(ついでに宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』も読む)

樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』光文社(光文社新書)、2007年7月刊。
Isbn:9784334034153

 本書のテーマは「はじめに」で明確に書かれています。樫村さんは次のように述べています。

 社会の流動化が進むことで、社会の「恒常性」が奪われ、長期的展望が成り立たないこと――。これが現在の私たちに突きつけられている問題であり、本書のテーマである。
 そして、流動化に対する不安から反動的な政治制度に回帰したり、個人と社会の変化の自由を否定したりする、今日の復古的な社会的「気分」を批判すること――。すなわち、社会の解体と流動化を進める「再帰化(……)」をあくまで肯定し、「恒常性」と「再帰性」という衝突する問題を両立させること――。これも本書のテーマである。(13-14頁)

 「恒常性」と「再帰性」を両立させること、なるほどテーマは明確です。けれども、そんなことできるんかいな、というのが、「はじめに」を読んだときの感想でした。ネオリベラリズムに含まれる反動的で排他的なナショナリズムや孤立化した家族への回帰を批判ないしは阻止するために、近代の「再帰化」の流動化を進める力を肯定すると同時に、いっぽうで流動化の弊害たるプレカリテ(不安定化、フレキシビリティないしは「液状化」)に抗するために「恒常性」を維持すること。そのようなかなりアクロバティックな戦略的目標を本書はもつというわけです。そのような難問に挑戦しようとする意気込みは評価したいと思います*1
社会の流動化や解体させていく近代資本主義の力を肯定することで、反動的に作られた閉鎖的な共同体を解体していくという戦略は以前からありました。そもそもマルクスの戦略もそうだったといえるかもしれません。ただ、本書に直接に関係するのは、ポストモダニズムの戦略です。その最良の例は、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』でしょう。ポストモダニズムにおいては、近代の原理や資本主義を徹底させ、押し進めることによって、近代を超えていくという戦略が謳われていました。日本のポストモダニズムであったニュー・アカデミズムでも、柄谷行人さんや中沢新一さん、浅田彰さんに共通しているのが、近代の資本主義を超えたり、反動的に作られた閉鎖的な共同体を解体したりするための資本主義の力の肯定でした*2
 毒をもって毒を制すというこのような戦略は現在でも唱えられています。アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『〈帝国〉』がそうです。グローバル化による急速になった流動性を搾取する〈帝国〉に対抗するには、その流動性を利用するしかないというのがその戦略であり、その意味では、ネグリとハートはマルクスポストモダニズムの直接の継承者といえるでしょう。
 けれども、樫村さんが本書で謳っている、流動化の力を反動(「貧しい恒常性」)に対抗するために用いると同時に、不安定性をもちらす流動性(「貧しい再帰性」)が破壊しようとしている恒常性を守るという戦略は、他にはあまり見られず(私が見落としているだけかもしれませんが)、その点が本書の独自性といえるでしょう。ただ、同時に、ではなく、段階を分けて(あるいは状況に応じて)、その両方を用いるというのであれば、宮台真司さんが『亜細亜主義の顛末に学べ』において示している戦略があります。

宮台真司亜細亜主義の顛末に学べ――宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス』実践社、2004年9月刊。
Isbn:491604374X

宮台さんは、現在の労働市場に顕著に見られるように、社会が過剰に流動的になっていて、個人が「別に自分じゃなくても誰でもいい」という入替え可能性(比較可能で交換可能)を感じていると指摘しています。この辺は、ジグムント・バウマンが『リキッド・モダニティ』で指摘していることと同じです。宮台さんは、援助交際女子高生を擁護していたときには、社会の流動性を推進させることによって反動的なオヤジたちの既得権益を崩壊させるという戦略を採っていたといいます。それは、当時は人々が流動性にアップアップしていたわけではなく、流動性が高まっても大したことはないと判断していたからだといいます。しかし、その後、過剰流動性による「個の入替え可能性」という感覚ゆえに、オウム事件や脱社会的な少年犯罪などもあり、グローバル化批判と流動性批判にシフトしていったと述べています。
 援助交際女子高生擁護=流動性推奨の戦略を採っていた1996年ごろにはすでに宮台さんがいう「過剰流動性」の弊害が現れていたとは思いますし、宮台さんのいう「脱社会的な少年犯罪」については、なにをもってそれ以前の少年犯罪と質的に違っているのかが明確ではなく、「脱社会的」と見えるのは、イギリスの犯罪学者ジョック・ヤングのことばを借りれば、犯罪に対する社会の対処の仕方が変化して「包摂型」から「排除型」*3に移行したから、「脱社会的」という名づけがあたかも正しいもののように見えるようになったのだと言ったほうが当たっているかもしれません。
 それはともかく、ネオリベラリズムないしは新資本主義によるプレカリテないしは過剰流動性によって、スティグレールのいう「個体化」、すなわち個々人の比較不可能性・交換不可能性(単独性・固有性・唯一性)という感覚が衰退しているという認識は、樫村さんと宮台さんに共通しており、それらがナショナリズムや「家族の復権」やセラピー文化やカルト文化に人々が魅かれていく理由だという認識も共有しています*4。そして、樫村さんは、「貧しい再帰性が破壊しようとする恒常性を守ることであり、しかし、再帰性を排除するような貧しい恒常性(原理主義)も退ける」という戦略を立てているのに対して、宮台さんが「不合理性を温存する非流動性と、合理性を温存する非流動性を峻別しよう」と唱えているところも、良い恒常性(非流動性)と悪い恒常性(非流動性)を区別しようという点で似ています。
 しかし、このような戦略に対しては、いくつかの疑問があります。まず、樫村さんの本に対しての疑問ですが、再帰性ないしそれによる流動性を反動(「貧しい恒常性」)に対抗するために用いるというポストモダニズム由来の戦略がはたしてネオリベラリズム時代において有効だろうか、ということです。というのも、樫村さんが紹介しているフランスの社会学者のボルタンスキとシアペロが述べているように、ネオリベラリズムは、「1968年の運動」、すなわちポストモダニズムを体制化したものであり、流動性再帰性や自己決定やフレキシビリティを支配の道具として組み入れたものだからです。樫村さんに言わせれば、それは「貧しい再帰性」ということになるのでしょうが、再帰性流動性が「貧しく」なることを防ぐ有効な手立てはないように思われます。だとしたら、重要なことは、悪い恒常性(非流動性)を退けるために再帰性流動性を利用するという戦略にこだわることではなく、個々人の入替え不可能性や交換不可能性(単独性・唯一性・かけがえのなさ)という感覚を流動性のなかでいかに守るかということでしょう。その感覚を取り戻すことができれば、「貧しい恒常性(原理主義)」に魅かれることもなく、したがって流動性再帰性を利用して「貧しい恒常性(原理主義)」を破壊するという必要もなくなるからです。
 樫村さんは、「ドゥルーズがいうように、普段の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている人々に、現在の貧しいコミュニケーションとは異なる創造への回路を開き、管理を逃れるために非=コミュニケーションの空洞や断絶器を作ることである」(298頁)と書き、「スティグレールのいうように、他者の多様性を受容することは、人のかけがえのない存在や経験の単独性を受容することと通底している」(311頁)と書いています。このような見解には賛同したいと思います*5。そして、「現在の貧しいコミュニケーションとは異なる創造への回路」や「人のかけがえのない存在や経験の単独性を受容する」場、いいかえれば不透明性をもって異質な他者と自己とが媒介される場を用意するのが「文化」であるというわけです。ただし、そのような場ないしは空間の創造が、具体的には、民族や階級の異なる人々を混合させて、都市を多様性や異質な他者との出会いの空間とするという方法によってなされると言われると、そのような「多様性」や「異質性」は、役割分化やカテゴリーの違いによる多様性であり、いわば商品の多様性と同じで、比較可能で交換可能な多様性にすぎず、けっして交換不可能な単独性や唯一無二性につながる多様性ではないと言わざるをえません。
同じように、宮台さんの提唱する反グローバル化の戦略である「盟主のいない亜細亜主義」でも「近代的愛国心(たとえば憲法パトリオティズム)」でも、交換不可能な単独性や唯一無二性(宮台さんの用語で言えば「入替え不可能性」)は衰退するだけでしょう。宮台さんは、「少年犯罪重罰化の大合唱も、ぷちナショナリズム症候群も、背後に『社会的流動性の高まりゆえの入れ替え可能性』に対する不安――自分としての自分が必要されていないという不安――があります」(106頁)と言い、そのような「ぷちナショナリズム」と、計算可能な国民益を増大させる営みにコミットする「近代的愛国心」とは別物だと言います。そして、「近代的愛国心」をつぎのような比喩で説明しています。国家は長距離バスで、統治機構の運転手と国民である乗客たちと、ヘリテージ(相続財産)が乗っているが、愛国心とは他の乗客たちと「よきもの」としてのヘリテージを守ろうとする思いだと。その「よきもの」が憲法であったら、「憲法パトリオティズム」という愛国心が生まれます。しかし、グローバル化はバスを簡単に乗り換えることを可能にしました。ですから、そのバスに「よきもの」が乗っているという実感がなければ、愛国心は生じず、乗り換えてしまうというわけです。けれども、その「よきもの」は憲法であろうとなんであろうと、比較可能で入れ替え可能なものです。比較できるから乗り換えなくなるのですから。となれば、比較可能で入れ替え可能な「よきもの」を創ろうという戦略は、再帰性による流動性をとどめることはできずに、かえって増進させることになります。
 また、「盟主のいない亜細亜主義」を、宮台さんは、それぞれの国が得意分野や得意のコミュニケーションの仕方を活かした「マルチレイヤーな異主体システム」だと説明しています。そして、その連帯をデュルケームが『社会分業論』で述べた有機的連帯、すなわち役割分業で生じる連帯だとしています。けれども、デュルケームは、そのような役割分業によって(つまり他とは異なる役割を担う主体となることで)個の重要性が増すけれども、その「個」が入替え可能なものとなることも指摘しています。役割とは誰でも担えるもので、比較可能なものです。それは全体組織のなかで他とは異なる機能を持つ「部品」のひとつ(ひとつの歯車!)になることです。そして、個々人が比較不可能で入替え不可能な単独性を実感できるのは、役割分業による有機的連帯においてではなく、類似性による連帯、すなわちデュルケームのいう機械的連帯においてなのです。その意味で、「盟主のいない亜細亜主義」によってアメリカ中心のグローバル化に対抗できたとしても、過剰流動性による入れ替え可能性の不安はそのままとなり、愛国心ならぬ反動的ナショナリズムやカルトの誘惑(樫村さんのいう「貧しい恒常性」)は続くことになります。
 もっとも、近代の入れ替え可能性をなくしていくことが重要なのではありません。リベラリズムの「公正さ」さの基盤となる、見知らぬ他者との社会的連帯は、個々人の属性や役割の交換可能性=入れ替え可能性によって作られます。ロールズの「無知のヴェール」という思考実験は、男で健常者で日本人で正社員で異性愛者で有能である自分という属性について何も知らなかったら、自分が女や障害者やケニア人やフリーターや同性愛者や才能のない者であるかもしれないと考え、そのような属性をもっても不利益にならない「公正」な社会を構想するだろう、そうして構想された社会こそ、誰もが生きやすい社会だというものでした。そこには、個々人の属性や身分や役割や能力が入れ替え可能であるということ(いつ自分が障害者やフリーターになるかもしれないとか、いつ日本人であることが不利になるかもしれないという可能性)によって、近代社会の連帯が作られていることが示されています。けれども、そのような社会的連帯が生まれるには、自分のもつ比較可能で入れ替え可能な属性や役割や能力がどんなものであろうと、それらとは無関係に、自分というものが入れ替え不可能で比較不可能な単独性=唯一無二性をもつという感覚が同時に必要です。そのような感覚があるからこそ、「比較可能な属性や役割や能力を入れ替えても」という思考が可能になるのであり、公正さや「よきもの」を守ろうという感覚も生まれるのです。
もう十分に長くなったので、そのことについての私の見解を詳しく書くことはできませんが(2冊いっぺんにというのがやはり無謀でしたね)、自分というものが入れ替え不可能で比較不可能な単独性=唯一無二性をもつという感覚は、レヴィ=ストロースのいう真正な社会という水準、つまり〈顔〉のある関係性(デュルケームのいう機械的連帯)でしか育まれません。その真正な社会での単独性=唯一無二性(入れ替え不可能性)を保持することこそ、非真正な社会の水準での(比較可能性や入れ替え可能性による)「公正さ」や「よきもの」や「多様性」を保持するための条件であり、個々人の唯一無二性や経験の単独性もそれによってしか守ることはできないでしょう*6

*1:その困難が「再帰化」を肯定することに固執していることに由来することに留意をしておく必要もありますが。

*2:それは甥の中沢新一さんを経由して、網野善彦さんの「無縁」論にも影響を与えました。

*3:ジョック・ヤング『排除型社会』洛北出版、2007年。

*4:そのことは、バウマンやリチャード・セネットなどの社会学者だけでなく、人類学者の上田紀行さんも『生きる意味』(岩波新書、2005年)で指摘しています。

*5:でも、これって、ドゥルーズスティグレールに賛同しているだけになるのか。

*6:ドゥルーズが『差異と反復』の冒頭で、どの項も他の項と交換可能で入れ替え可能であるという、個別的なものの交換や置換が一般性と対応するが、「反復」は、交換不可能で置換不可能な単独性(翻訳では「特異性」となっていますが、他と比べて「特異」である必要はないので、ここは「単独性」ないしは「唯一性」と訳したいところです)と関わると述べているのも、このような文脈で読み返すことができるでしょう。