「真正性authenticity」という語について

 Macbethさん、コメントありがとう。エントリとは関係のないコメントでも大歓迎です。このブログでは、コメントでの他の人のことばからものごとを考えていくことが多いので(良く言えば「対話」的思考ってことですが、「対話」というわりには、他人の言葉はたんなるきっかけとして置き去りにして、あらぬ方向へいくことも多いのですが)、何かきっかけをこのようにいただくと助かります。
 さて、macbethさんが気にしていた、レヴィ=ストロースがなぜ「真正性の水準 niveaux d’authenticité」という用語で、authenticitéという言葉を選んだのかということについてですが、私はmacbethさんのように、「カトリシズムにおける教会権威によって保証された真正性」を意味する《authenticity》という語」というように考えたこともなかったので、ご指摘は新鮮でした。ただ、「真正性の水準」という語をキーワードとして使用するに当たって、「真正性authenticity/authenticité」という語が、これまでどのような使われ方をしてきたかは、検討してみました。というのも、文化人類学では、本質主義批判の文脈で、authenticityやauthentic という語は、本質主義が用いる語として評判が悪かったからです。また、アドルノハイデガー批判の『本来性という隠語』という本の本来性も英語に訳せば、authenticityです。そういった意味で、カトリシズムの文脈を離れても、誤解を与えかねない語であることに確かでしょう。
他にも、文芸評論家のライオネル・トリリング『「誠実」と「ほんもの」』という有名な本における「ほんもの」もauthenticityですし、最近翻訳が出たチャールズ・テイラーの『〈ほんもの〉という倫理』の〈ほんもの〉もauthenticityです。
これらの本は、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」と直接クロスするような議論ではありませんが、「ほんものだ」といった手に触れることの出来るような確実性や直接的な手ごたえといった感覚的なものが、このauthenticity/authenticitéという語にはあり、レヴィ=ストロースのいう「媒介されることによる(あるいは代表=表象されることによる)真正性の欠如(「まがいもの」らしさ)」と区別された、触感的な「ほんものらしさ」を表わすのに適切と考えたのでしょう。もともとカトリシズムから来た語であることは私は知りませんでしたが、ヨーロッパの哲学用語のほとんどが(古代ギリシア哲学起源でないラテン語からのものは)キリスト教に由来するといえるわけで、上に挙げた他の著者たちの使い方を見ても、「キリスト教の宗教色がまとわりつくのが当たり前と推察される」という感じはしませんでした。
ただ、後から出てきたデリダの直接性批判や人類学における本質主義批判、そしてアドルノハイデガー批判に共通するような「authenticity批判」については、レヴィ=ストロースはあらかじめ承知の上で確信犯的に使っていたということはできるかもしれません。