「ニューエイジ運動」との連続と不連続

 現在のスピリチュアル・ブームについての文献というのは、まだあまりありませんね。当たり前ですけど、研究はかなり遅れてやってくるんですね。香山リカさんの本と信田さよ子さんの『論座』(2006年6月号)の論文くらいしかまだチェックしていませんが、両方とも研究とは呼べないものです。香山さんにしろ信田さんにしろ、臨床心理士でカウンセリングをしているわけで(精神科医の香山さんが臨床心理士の資格を取ったことは今回はじめて知りましたが)、スピリチュアル・カウンセラーを名乗っている江原啓之さんはいわば商売敵(「同じ穴のむじな」と言ったら怒るでしょうか)だから、反応が早いのでしょうね。現在のスピリチュアル・ブームは、「オカルト」文化や「ターミナル・ケア」(死生学)をはじめとする「スピリチュアル・ケア」から出てきたわけではなく、広い意味での「セラピー/カウンセリング文化」の中から出てきたわけで、その点からすれば、精神分析臨床心理士のカウンセリングもスピリチュアル・カウンセリングもその中に含まれてしまいます。
 そして、「セラピー/カウンセリング文化」が社会の「個人化」*1やネオ・リベラリズム期社会のイデオロギーと関連していることは、多くの人たちによって指摘されています。問題はどう関連しているのかですが、個人化によるリスク社会での不安からの逃避というだけでは、説明になっていないでしょう。それでは、「社会が不安定になるといんちきなスピリチュアリズムが流行る」というのと変わりません。あるいは、ネオ・リベラリズム期で加速している個人化や新資本主義(あるいは千年紀資本主義)に適応するためというのでも不十分でしょう。適応といっても、ただ支配的イデオロギーに順応するわけではなく、それをやり過ごしたりずれを生じさせたりしているからこそ「流行る」のでしょうから。
 しかし、実際にどのような「ずれ」を生じさせているのかについては、まだすこし材料不足ですので、今回は、現在の「セラピー/カウンセリング文化」としてのスピリチュアル・ブームを考えるうえで欠かせないと思われる、1980年代の「ニューエイジ運動」や「自己啓発セミナー」ブームと現在のスピリチュアル・ブームとの連続性と非連続性について書きたいと思います(おい、まだ前置きかよって声が聞こえたような)。そして、香山リカさんの本に決定的に欠けているのが、このニューエイジ運動との関係なのです。
 1980年代のニューエイジ運動はアメリカ経由で入ってきて流行したものでした。自己啓発セミナーも、アメリカのヒューマン・ポテンシャル運動に由来し、ニューエイジ運動の一部とされています。ニューエイジ運動は、「自己の内面の探求」という特徴をもち、究極のリアリティに至るには、家族や地域共同体や学校教育から離脱しなければならないという主張がされます。ただ、日本のニューエイジ運動は、消費文化の側面が強いといわれています。つまり、書籍やヒーリング・ミュージックのCDを買ったり、一人でニューエイジ系のセラピーに行ったりするだけの「消費者ニューエイジャー」が多いと指摘されています *2
 ニューエイジ運動と現在のスピリチュアル・ブームとの連続性はいくつか指摘できます。まず、表面的なこととして、1980年代後半の日本(要するにバブル期です)の「消費者ニューエイジャー」は、そのままアロマテラピーリフレクソロジー、風水などへとつながっていきましたが(いわゆる「癒し」ブーム)、その延長上にいまのスピリチュアル・ブームがあることは確かでしょう。80年代後半の消費者としてのニューエイジャーは、主に20歳代から40歳代の女性たちだったとされていますが、それは、現在の「エハラー」と重なっています。
 また、ニューエイジ運動は、それまでの宗教や新宗教とは異なり、集団(教団)や指導者(教祖、グル)への強いコミットメントを否定するという特徴をもっていますが、これも現在のスピリチュアル・ブームと同じです。香山リカさんは、

「エハラー」と呼ばれるようなスピリチュアル指導者の熱狂的ファンの間には、横のつながりはなかなか育たない。ファンクラブ的な組織が作られることも少なく、トークイベントなどを(ママ)行っても、来場者はあくまでひとりで、あるいはせいぜい友だちと連れ立ってくるくらいで、そこで新しい友だちや仲間ができるといったことはなさそうである。[香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書、2007年、176-177頁]

と書いています。「なさそうである」と自分で確かめたわけではないようなので不安ですが、すくなくとも、集団や指導者にコミットメントをしていないことは想像できます。香山さんは、「スピリチュアル」が宗教とは程遠いものだということを言うために、上のような特徴をあげているのですが、ニューエイジ運動にもそれはそのまま当てはまるわけです。
さらに、消費者として受け取るメッセージも連続しています。香山さんは、「エハラー」の女性たちが求めているものを、

「そのままのあなたでいい」「自分の中にいる本当の自分を愛そう」といった受容や慰撫のことばなのだ。[前掲書、110頁]

と言っています。他方、ニューエイジ運動についても、樫村愛子さんは、消費者ニューエイジャーたちが、

ニューエイジ的商品の消費のなかで、「頑張らなくてもよい」「あなたはありのままで、全面開花しているのだ」と語りかけられ、そういう心理学的な技法で媒介された「安らぎ」や「癒し」を共有することを通して、あるか無きかの共同性を求めているのです。[白石嘉治/大野英士編『ネオリベ現代生活批判序説』新評論、2005年、120頁]

と述べています。
 こう見てくると、スピリチュアル・ブームと1980年代のニューエイジ運動は、ほとんど連続的に捉えることができます*3。1992年のバブル崩壊とともにニューエイジ運動は下火になりましたが、ここへきて似たようなスピリチュアル・ブームが起きているのは、たんに景気が良くなって、また「スピリチュアル」を消費する余裕が出てきたというだけなのかもしれません(景気が良くなったという実感はありませんが、もっともバブルの頃だって景気の良い話とは無関係の生活でしたから、私の実感は当てにはならないということになります)。香山リカさんの本では、ニューエイジ運動との比較という視点がまったく欠如していますので、いままでと違う新しいブームということになってしまっています。
 しかし、ニューエイジ運動と現在のスピリチュアル・ブームとの非連続性もあります。私の考えでは、既成の秩序の集団や役割関係から離脱するか否かという点において、決定的な違いがニューエイジ運動と現在のスピリチュアル・ブームとの間にあると思います。ニューエイジ運動では、すでに述べたように、家族や地域共同体からの離脱ということが重視されていました。ニューエイジャーとなった20代〜40代の若い女性たちは、とりわけ家族のなかで抑圧を感じていたからこそ、そこではないところに安らぎを求めていたというわけです。
そして、ニューエイジ運動が家族や地域共同体からの離脱の手段として用いたものが、樫村愛子さんも指摘しているように、水平的な平等関係からなる代替的な集団でした(樫村さんは「退行的な水平的共同性」と呼んでいます)。そのことは、ニューエイジ運動が1960〜70年代のカウンターカルチャーの影響を強く受けて誕生したことと無関係ではないでしょう。カウンターカルチャーにおいて、それはコミューンとして現れます。コミューンは、垂直的な地位=役割関係からなる既成の集団(家族・地域共同体・学校・会社などの集団)からの離脱のための小集団でした。
水平的な平等関係からなるコミューンは、ヴィクター・ターナーのいう「コミュニタス」の性格を持っています。しかし、小集団で既成の集団の抑圧から飛び出して作られた「コミュニタス」としてのコミューンは、ターナーのいう「自生的コミュニタス」のもつ一時的という性格どおりに、多くは、自壊するかあるいは「規範的コミュニタス」に変化してカルト集団となるという道をたどっていきます。*4
 ニューエイジ運動は、カウンターカルチャーから水平的な平等関係からなる小集団による既成の集団からの離脱という手段を引き継ぎますが、しかし、コミューンやカルト集団とは違って、水平的な平等関係からなる退行的な集団へのコミットメントを弱くするという方法を採りました。つまり、部分的・選択的コミットメントです。
 社会学者の芳賀学さんは、「匿名的で、かつ『親密』なかかわり――1.5次関係としての自己啓発セミナー」という論文のなかで、

自己啓発セミナーにおいて行われるような、抱き合う、秘密を告白する、遠慮なく相手の印象をいい合う、感涙にむせぶなどといった行為は、本来、家族・友人・恋人などの共同体的な人間関係(=1次関係)か、それに準じる位置にある信仰共同体で扱われるべきものということになる。ところが、この種のセミナーでは、こうした行為がいわば行きずりの「赤の他人」との間(=2次関係)で平然と行われる。[伊藤雅之/樫尾直樹/弓山達也編『スピリチュアリティ社会学世界思想社、2004年、45-46頁]

と指摘し、自己啓発セミナーでの関係を「1.5次関係」と呼んでいます。これは、若者たちのロールプレイ的(「キャラ的」といいかえてもいいでしょう)な仲間関係を表わすための浅野智彦さんの用語である〈選択的コミットメント〉と言い換えてもいいでしょう。*5
 話はすこし脱線しますが、人類学にとって大事なことを書いておきましょう。それは、コミューンのような水平的な平等関係からなる場ないしは小集団(=コミュニタス)によって、既成の秩序での集団や共同体における垂直的な(上下の)役割関係から離脱するというやり方と、ターナーが最初に「コミュニタス」という用語を使った、アフリカのローカルな共同体の儀礼のときに出現する「コミュニタス」との違いです。後者のコミュニタスは、垂直的な地位・役割関係からなる既成の秩序や人間関係がそのまま一時的に、垂直的な地位・役割関係から離脱して水平的な平等関係となるということに特徴があります。つまり、そこには、垂直的な地位・役割関係から離脱するためにはそのような関係を持つ相手から離れなければならないという固定観念がないのです。既成の秩序における特定の相手との親族関係=垂直的な地位・役割関係が、儀礼の過程で、相手は変わらないのに一時的に捨て去られて水平的な平等関係になるというわけです。そのように同じ関係の意味が転換することを、私は「関係性の過剰性」のなかの「関係の複数性」と呼んでいます。ドゥルーズのいう「リゾーム」は、そのような「関係の複数性」を示す概念と読むことができます。
 この「関係の複数性」は、場の複数性というか状況の複数性ともなります。そして、それは、他者とともに暮らす技法となっているのです。社会学者が想定(妄想)するように、共同体的関係は、「つきあいの時間や範囲が無限定で、関係が、役割的ではなく人称的で、情緒的」ではなく、役割的になったり人称的になったりしますし、その時間や範囲はそのつどの場や状況によって限定されています。たとえば、家庭のなかに他人がふつうにいます。プライヴァシーがないのではなく(たしかに近代家族のような核家族に限定された固定的閉鎖的な家庭のプライヴァシーという観念は、近代の産物ですが)、親子や夫婦であっても他者性が残っていると同時に、家族ではない他人であっても、状況に応じて関係の意味が変わります。日本文化の中の例と比較していえば、それはちょうど日本では、ふすま一枚で区切って隔てれば、その向こうが見えても見えないことにする約束事を空間的に行っていますが(もちろん、こんな技法は現代日本ではなくなっています)、そのようなことをさまざまな社会で違った形で、空間的にも関係的にも行っているといえばいいでしょうか。
 それに対して、前者の「近代的」な「コミュニタス」は、ある特定の相手との関係の意味は変わらず、つねに一義的なものになっていて、その垂直的な地位・役割関係から離脱するためには相手や集団を変えて、別の人と別の場所で水平的な平等関係を作らなければならないという固定観念によっています。そこには、「関係の複数性」が除去されてしまっています。おそらく、この同じ近代の固定観念が、近代家族の情緒性やプライヴァシーという理念を創りだし、社会学者は、共同体を具体的にイメージするときに、それをもとに「閉鎖的な共同体」とイメージしてしまっているわけです。そして、家族もある面では他者だということと、その他者との共在のための技法が消し去られてしまい、家族は一義的なベタな関係となり、そのベタな関係の抑圧性から逃れるためには、家族という場から出て行くか、家族を解体するしかないと観念されるようになるのです。
 脱線のついでに、脱線の脱線を。ニューエイジ運動が、「部分的・選択的コミットメント」による小集団によって、既成の集団や共同体の垂直的な地位・役割関係(要するに「しがらみ」ですね)から離脱しようとしていたのと同じ時期に、既成の秩序の垂直的な地位・役割関係を断ち切るための手段として、より強力な方策が夢想されていました。夢想していたのは、ニューアカデミズムと呼ばれていた人々、すなわち、中沢新一さんや浅田彰さんや柄谷行人さんや蓮實重彦さんたちです。そして、その方策が、資本主義の力によって既成の共同体や集団の垂直的な地位・役割関係を断ち切っていくというものです。中沢新一さんの叔父さんである網野善彦さんも、1970年代に、「アジール」という概念やターナーのコミュニタスなどの概念をも取りこんだ「無縁」という概念を提示しましたが、80年代になると、中沢新一さんの影響で、「無縁」と資本主義の結びつきという議論を始めます。浅田さんも、マルクス主義者としてスタートしたのに、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の議論などを援用して、資本主義による解放というヴィジョンを提示します。バブルだったんですね*6。この「資本主義による解放」というヴィジョンもまた、「関係の複数性」ということを消去して、「無縁」(という関係の場)が実現するためには、すべての既成の垂直的な地位・役割関係を断ち切らなければならないという固定観念の現われといえるでしょう。
 さて、現在のスピリチュアル・ブームとニューエイジ運動との不連続性に話をもどしましょう。カウンターカルチャー運動から、コミュニタス的な小集団による既成集団からの離脱という戦略を受け継ぎながらも、それをコミューンという強いコミットメントを要するものとしてではなく、弱い〈部分的・選択的なコミットメント〉による小集団(「トライブ」とも呼ばれます)によって離脱するという戦略をもっていたニューエイジ運動ですが、現在のスピリチュアル・ブームには、このコミュニタス的な小集団による既成集団からの離脱という戦略はもうありません。香山さんが書いていたように、「そこで新しい友だちや仲間ができるといったことはなさそう」で、そこには〈部分的・選択的なコミットメント〉すらないし、そもそも「エハラー」たちは、家族や会社などの既成の集団から離脱するという戦略を捨てているのです。
 江原さん自身も、仕事の人間関係を上手にこなすには職場では「心の鎧」をつけて「自分自身の魂を封印」して、ドライな関係で割り切ればよい(見ていないけど「ハケンの品格」みたいにってことですかね)と言っています*7。つまり、職場での〈部分的・選択的なコミットメント〉を進めているわけです。また、「家族が好きになれないとき」のアドヴァイスは、「魂の家族」である「グループ・ソウル」の存在や、つねにあなたを愛している「魂の親」であるガーディアン・スピリットの存在に気づくことというものです。つまり、実際の「この世での親」が子どもを愛せないような親でも、「魂の親」がいるから大丈夫、実際の家族に強いコミットメントをする必要もないという忠告といえます。
 ようするに、家族や職場の集団がすでに、弱いコミットメントしかしなくてよい集団になっているわけですから、そこから離脱する必要もないのだということが見て取れます。それは、現代では家族もまた「キャラ的人間関係」ないしは「ゲゼルシャフト化」しているという社会学者の診断とも一致しています*8
 それは、「個人化」の帰結でもあります。内田樹さん流にいえば、消費者マインドしか持てなくなっている帰結です。けれども、当たり前のことですが、〈部分的・選択的なコミットメント〉だけで人間は満足できないでしょう。真正性のレベルで他者と共在する技法は、なくなったわけではありません。すべてを「キャラ的人間関係」ないしは「ゲゼルシャフト化」して、〈部分的・選択的なコミットメント〉だけで生きて行くというネオ・リベラリズムに順応しているだけのように見えても、そこには、たとえば「エハラー」たちも、江原さん自身が思いもしなかった「ずれ」を作り出しているように思います。しかし、これだけ長くなってしまいましたから、「個人化」とその流用の話はまたいつか。
 それにしても、ブログにしては長すぎるし、注もたくさん付いていて、論文みたいになってしまいました。ホントに誰か読んでくれるのかな。

*1:生活のあらゆることが自己選択の対象となること

*2:cf.伊藤雅之『現代社会とスピリチュアリティ渓水社、2005年

*3:樫村さんが「あるか無きかの共同性を求めている」と書いていることが、現在のスピリチュアル・ブームには「あるか無きかの共同性」すら求めていないように見える点が違いますが、それについては後段で扱います。

*4:日本でも1978年にマスメディアが取り上げて「事件」となった「イエスの方舟」の騒動がありました(知らない若い人たちウィキペディアでも見てください)。山口昌男さんが「『イエスの方舟』の記号論」(『文化の詩学Ⅰ』岩波書店、に所収)という論文で、「イエスの方舟」を「長屋的気楽さを持ったコミュニタス」として分析していますが、そこに家族から逃れて集まった人たちの多くは、80年代後半のニューエイジャーと同じく、若い女性でした。しかし、それはマスコミによる「モラル・パニック」的なヒステリックな報道でカルト集団扱いされたにもかかわらず、持続可能なコミュニタスとしてその後も長く存続しています。

*5:もっとも、「1.5次関係」という用語の問題点は、共同体的な人間関係である「1次関係」を、「つきあいの時間や範囲が無限定で、関係が、役割的ではなく人称的で、情緒的で、自足的」としているように、オリエンタリズム的な二元論によって「他者化」されて創られた「共同体」のイメージに全面的に依拠している点にあるでしょう。時間や範囲が無限定で人称的=全人格的な関係なんて少し考えてみれば耐えられないしありえないことがわかるでしょうし、家族や共同体が役割関係からなるというのも自分たちの家族や共同体を思い浮かべればわかりそうなものだと思うのですが(社会学者は、いやそれは「理念型」として出しているのであって、程度の差だと言うでしょうが、もちろんオリエンタリズム的二元論も程度の差がある理念型として出されます)。自分たちとは違う「前近代人」や「未開人」は「個」というものがないから耐えられると思っているのでしょうね。いまだに続いている社会学者の金太郎飴的紋切り型がここにも現れています。

*6:ただ、バブル期のヴィジョン(幻想)というだけですませられないのは、ネオ・リベラリズム期にはその「解放」が実現していくからです。

*7:『幸運を引きよせるスピリチュアル・ブック』三笠書房、2001年、23-24頁

*8:ex.森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年、102-105頁