戦略的本質主義を乗り越えるには(4)

さて、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」について、戦略的本質主義コミュニタリアンも見落としているということ、この「真正性の水準」において、「役割連関」(有機的連帯)による関係性が、それだけでは留まらず、根源的な社会的連帯(機械的連帯)としての「〈顔〉のある関係」の相を帯びるということ、そして「真正性の水準」におけるそのような「関係の過剰性」(「しがらみ」と言い換えてもいいでしょう)においてこそ、差異や多様性を保持できるのであり、個人化による自己選択は、むしろ差異や多様性を失わせるということを述べたいと思います。
 真正性の水準とは、「まがいものの(非真正な)社会」と「ほんものの(真正な)社会」を区別するということです。現代では、大多数の人々と、行政機構や文書、新聞、雑誌、写真、ラジオ、テレビなどの媒体(メディア)を通した交流をするようになっているが、それらの媒体は、そこに「まがいもの」らしさを生じさせており、人間の自律性を失わせていると、レヴィ=ストロースは言います。ポストモダニズムからすれば、「ほんものの社会」なんて言い方だけで非難ごうごうとなるような議論でしょう。しかし、レヴィ=ストロースは、人類学の社会科学への最大の貢献が、この二つの社会生活の様式を区別した点にあるということは、将来いっそう明らかになると繰り返し述べています。
 ここで、この「ほんものの社会」の水準やそこでの〈顔〉のある関係が、必ずしも親密圏ないし共同体においてのみ成立するものではないことを表している文章を引用しましょう。それは、先日読んだアルフォンソ・リンギス(前にもリンギスを引用したのでまたかと思うかもしれませんが)の次のような文章です。

 日々、われわれは、確立した社会システム内の持ち場についている人々と応対する。そのシステム内では、行動は社会的に規定され、公認されている。バスの運転手は決められたルートを通り、銀行の係員は適正なローンを組むと信頼されている。それらの人々の行動に対するわれわれの信頼は、交通や商業システムの機能に関する知識に基づいている。だが、きみを信頼するのは、わたしの知識を超えて、きみというリアルな個人にすがることだ。(中略)自宅を離れ、所属する共同体を離れて、どこか遠い土地にしばらく住むとき、見知らぬ人を、親族関係の絆を持たない相手を、ある共同体や信条に対する共通の忠誠心を持たない人を、契約上の義務を持たない人を、信頼することが毎日のようにある。(中略)われわれは、その言葉や動作を理解できない人物に、理由や動機がわからない人物に、絆を感じる。信頼は、社会的に規定された行動を表わす空間をショートさせ、そこにいるリアルな個人と――きみと――触れあう。
 ひとたびだれかを信頼する決心をすると、魂に浮かぶのは静けさだけではない。そこには興奮と浮きたつ気分がある。信頼は、他の生きものとのもっともよろこばしい絆だ。だが、だれかとともにいることを楽しむとき、そこには危険性の要因があり、同時に信頼の要因があって、それが恍惚ぎりぎりの快楽を与えるのではないだろうか。[リンギス『信頼』青土社、11-12頁]

 ここには、システムに対する信頼(媒体を通した関係における信頼)と、役割や地位といったシステムを介した関係とは別の、〈顔〉のある関係における信頼(きみというリアルな個人への真正な信頼)との違いが示されています。最近、日本社会から信頼が失われているという議論が多くなっていますが、たいてい企業や役人の不祥事などを挙げて信頼が失われたと、システムへの信頼について言っているだけで、このシステムに対する信頼と〈顔〉のある関係における信頼を区別して論じている人はほとんどいません。真正性の水準を区別していないわけです。あるいは、社会というものをシステムに対する信頼だけで成り立っているのだと考えているかのようです。
 システムへの信頼が裏切られてもたいして問題ではありません。効率が悪くなるだけで、システムの悪口を言っていればいいのですから。国家や行政機構というシステムへの信頼がなくなったりそのシステムの効率が悪くなったりするのは重大な問題だといいたい気持ちは分かりますが。また、国家による再分配の機能を重視して、国家以上に平等に効率よく分配をできるシステムがない以上、国家なんていらないという議論は無責任だという議論もあります。しかし、一時期の(あるいは独立以降ずっと?)ケニアをはじめとするアフリカ諸国家のように、国家というシステムが機能せずに、信頼もおかれていない国では、かえって国家というシステム抜きで生きていく術を人々は知っています。それらの国では、国家の分配のシステムがしょっちゅう壊れて、たとえば飢饉のときの援助もうまく分配されないし、牛乳公社のように突然牛乳パックの流通や分配がストップしたりします。確かにそれでは生きていくことも困難になります。しかし、そうなったときには、ローカルな分配がすぐに生じます。それは地域で流通・分配を行うので、均等にはいかないし、地域の間で、そして地域内でもでこぼこが生じます。しかし、その地域で最も困っていることや人の救済としてはむしろ国家のシステムよりうまくいくことも多いのです。もちろん、デヴィッド・グレーバーの『アナーキスト人類学のために』(以文社)のように、国家なんて要らないというと極端に聞こえるかもしれませんが、たしかに国家というシステムに依存しているから、それがないと生きていけないのであって、その依存は実はたいして必要ではないということを人類学者が言うことは大事でしょう。
 効率や平等(そもそもそれは国家を超えた平等ではありません)のためにシステムが必要だという議論は、効率や平等がそれほど深刻ではない国での議論です。そしてそれがシステムに任せればいいという議論になってしまうと、リアルな個人への信頼を邪魔してしまいます。行政機構などのシステムによる分配が必要なんだという議論で、私にとって説得力があったのは、効率や平等を言うのではなく、面と向かって直接に援助や分配することの困難さを述べていた、マイケル・イグナティエフの議論でした(たしか『ニーズ・オブ・ストレンジャー』風行社、でだったと思いますが、いまその本が見当たらないので、違っているかもしれません)。誰でも、直接に援助を差し伸べるのは恥ずかしさを感じることですし、相手が負い目を感じるのではないかというためらいもあります。そもそもどうやって渡せばいいのかも慣れていない私たちには難しいことです。分配や援助をシステムに任せれば、そのような気遣いなしにできます。けれども、そのような依存が、気遣いや人を援助するときの術から私たちを疎外しているのも確かです。そして、そのようなわずらわしさ・気遣いから撤退することが、私たちの日常生活から、リンギスのいう「危険性の要因があり、同時に信頼の要因があって、それが恍惚ぎりぎりの快楽を与える」ということをなくしていくことになってしまうのでしょう。
 とくに、リンギスが言っている、「所属する共同体を離れて、どこか遠い土地にしばらく住むとき、見知らぬ人を、親族関係の絆を持たない相手を、ある共同体や信条に対する共通の忠誠心を持たない人を、契約上の義務を持たない人を、信頼することが毎日のようにある」ということを、そして、人々に笑われながら援助を受けるということを、フィールドで経験している人類学者として、そのような気遣いや社交術がいかに重荷ではなくかえって人を楽にしてくれるかを言っていく必要があるでしょう。また、ヴィクター・ターナー山口昌男さんなんかが言っていたコミュニタスや両義性も、そのような生活の術という面から見直すこともできます。つまり、システムやメディアに媒介されない真正な社会という様相において、関係の過剰性を維持しながらそれを「恍惚ぎりぎりの快楽」へと換えていく術として。
そして、象徴人類学の議論、例えば、スケープゴート・メカニズムを理解するときにも大事なのは、真正性の水準の区別です。つまり、システムやメディアにおけるスケープゴート(排除)と、真正な社会での排除とはまったく異なるものだという認識です。
 話がどんどん逸れていってしまったようです。話を戻せば、戦略的本質主義が擁護しているアイデンティティ・ポリティクスも、システムやメディアを媒介したアイデンティティを問題にしているといえます。確かにシステムから疎外され、そのシステム相手に闘うときには、システムやメディアを媒介したアイデンティティや論理というものが必要となるでしょう。真正性の水準という議論は、そんなのはまがいものだから捨てろと言っているのではありません。テレビや書物やメディアを介した知識やコミュニケーションが必要だと言っているのでもないのです。言っていることは、ただ、そのレベルと真正な社会というレベルとの違いが重要であり、それを混同するなと言っているだけです。
メディアを介した知識やコミュニケーションが私たちの役に立つのは、それが真正な社会のレベルにおいて自分を肯定するために使われるからです。その意味では、システムやメディアを媒介したアイデンティティなど、それだけならば、自分の生活の中で自分を肯定するためにちっとも必要ではないといえます。コミュニタリアンの議論も、国家から村落共同体まで、同じようにコミュニティとして、そこでの「共通善」の重要性を強調する場合が多いのですが(そして、現代のコミュニタリアンは、村落共同体は過去の「閉じられた抑圧的な共同体」であるとして、村落共同体がどのようなものかも知らないのに、現代のコミュニティから除外してしまいます)、「まがいものの社会」の共通善なんて、共通善の名に値しないものであって、たいてい「ほんものの社会」での共通善を均質化して壊した後で創られるものです。
あれ、話が戻らないな。というか、どこに戻せばいいのか見失ったようです。まあ、これもブログらしいということで(どこがじゃ)、今回はこのへんで(しかし長くなったなあ)。