進歩と解放

 文化人類学を講義していると、学生たちの「人類の進歩」についての信仰が非常に頑強であることに驚くことがあります。今の時代に生まれて良かった、とか、アフリカじゃなく日本に生まれて良かったという感想も聞きます(講義をどんな風に聴いているんじゃと怒りたくなりますが)。
 確かに17世紀のアフリカに生まれて、奴隷としてアメリカに連れてこられたとしたら悲惨だと思うのは仕方のないことかもしれません。しかし、それが自分だったかもしれないという想像力と、そのような境遇でも人はなんとか他人と関係を作りながら人生を自分のものにしていたということを、人類学を通して会得してほしいとは思っているのですが(まあ、授業が下手ということでもあります)。
 進歩についての信仰の強さは、少なくとも「技術革新」について人類社会は進歩してきたじゃないか、昔の不便な生活に戻れというのか、ということから来るようです。携帯もインターネットもない時代なんてってことになります。携帯電話を誰も知らない時代はそれについての欲望も生まれようもないから、そんな時代やだってことにはならないのですがね。
 そんなことを考えたのは、休みがほんとにない生活をしながら、その間に4時間以上に及ぶ会議に出席していたからです。まじめな会議で、私はなるべく楽しくと思い、会議中にくだらない冗談を言っていたのですが、浮いていました。そこで思い出したのが、調査地のケニアの片田舎のことです。水道も電気もないところなので、住民は、乾季になると毎日のように近くの川に水汲みに行きます。西ケニアはまだ降水量が多いので、乾季でも川に水があり、私の暮らしている所からも30分ほど歩くと水のあるところにいけます。
 もちろん、私は水汲みはひとに頼んでしてもらいます。そこでは、子どもたちでも水の入ったポリバケツやポリタンクを器用に頭に載せて運んでいますが、私はそれができないからです。
 水道があれば、住民たちはこの水汲みの仕事から解放されるわけで、技術の進歩によって水道を設置することは、なるほど分かりやすい進歩のように思います。生きるための日々の仕事から解放されれば、ゆっくり議論したりする時間もできるというわけです。しかし、どうもケニアの片田舎のほうがゆっくりの時間があるという印象はぬぐえないのです。自分では水汲みに行かないけれど、付いていくことは何回もありました。最近では車で行ってポリタンクを運ぶこともあります。川の水汲み場は、社交の場でもあります。冗談も飛び交います。また、水汲みなどしない長老たちは、別のところで一日おしゃべりや議論をしています。
 それを思い出しながら考えたのは、そのような日々の水汲みから解放されたのは、笑いも起こらない会議や書類作りをするためだったのかと。どっちにしろ生きるための日々の仕事をしているわけですが、環境に強いられた仕事から解放されて、自己選択した仕事(とされているけれど、誰もが強いられた仕事と感じている仕事)をしているほうが幸せだと思えるというのはやはり信仰(迷信といったほうがいいかもしれません)でしかないのではないかと。
 ブログらしく日記風にしてみました。