家業を継ぐことと自己選択

 海とばばさん、黄色い犬さん、コメントありがとう。ローランさんようこそ。
ローランさんが

部屋の片づけが上手な人なら誰でも気づきそうなものなのに(勉強が好きな人なら学術書が手の届きやすいところに配置されるし、ゲームをよくやる人ならゲーム機を取り出しやすくしたりするという優先順位の決定)、意外と気がつかない人が多いのに驚きます。

と書いていますが、私のことを言われているのかと思いました。すみません。
 さて、海とばばさんが、2月22日のコメントで

ブログを読みつつ、家業をついでいる人が、両親を見捨てて出て行くことなどできないといってそれを継がなければならなかったやるせなさを、寝るまでのひと時に話してくれたことを思い出しました。

というコメントをくれました。これは、私が

環境に強いられた仕事から解放されて、自己選択した仕事(とされているけれど、誰もが強いられた仕事と感じている仕事)をしているほうが幸せだと思えるというのはやはり信仰(迷信といったほうがいいかもしれません)でしかないのではないか

と書いたことと絡んでいますよね。確かに、自己選択/自己決定というのは、周囲からの強制やしがらみからの解放を意味していました。私も、もちろん自己選択ができることは、できない状況よりいいと思っています。
 ただ、「自己選択できることが望ましい」ということと、現代社会のように「自己選択しなければならない」ということが強迫的な規範になることは別のことです。そこでは、自己選択/自己決定をすること自体が目的のようになってしまっています。何を選択するのか、どういう決定をするのかという内容抜きに、たとえ最悪の選択や決定をしても、自己選択することが良いことだということになってしまっています。まあ、周囲に良いことを強いられるより、自分で間違うほうがずっとましだということなんでしょうが、これってどこか変ですよね。
 そして、自己選択の幅が広がり、生活のすべてのことを個人が自己選択・自己決定しなければならなくなる(このことを、ウルリッヒ・ベックは「個人化」と呼んだのでした)と、選択に伴うリスクも大きくなり(これが「リスク社会」ということです)、そのリスクは自己責任で負わなければならないとなると、かなり大変な負担です。現代社会における呪術やスピリチュアリズムの活性化は、この自己責任という負担を軽減するための方策だともいえます。自己選択に伴う運・不運を、他人の呪術や前世のせいにできるというわけですから。
 現代社会の自己選択・自己決定の規範が問題なのは、その選択が結局は市場での選択となってしまっていることにもあります。仕事も労働市場での選択ですし、恋愛や結婚も恋愛市場での選択とされ、どこに住むかも親の介護も市場での選択となっています。そこで得をするか損をするかが重要だというわけです。
 さて、「家業」ということに話を戻せば、家業を継ぐのが当たり前のことだった時代には、そのことを枷とかしがらみとかは思わないわけです。「家業」というのは、家が生産手段(農家なら農地ですが)を所有しているということです。そこでの自己選択は、その枠内でどのような経営をするかということになります。しかし、自分の身体以外に生産手段をもたない「労働者」という存在が大量に生まれると(それは生産手段を奪われることで作られるのですが)、生産手段を所有している人に雇われることでしか生活できなくなります。そこでの自己選択はどこに雇われるかというものですが、そのためにどのような教育を受けるか(教育機関の社会的機能は、職業選択のための振り分けにあります)、どのように労働者としての自己の商品価値を高めるか、ということもその自己選択に含まれます。人に命令されながら従順に労働するなんてまっぴらだと、なるべく仕事をさぼってアフター・ファイブを仲間と楽しむといった自己選択をすることは、労働者としての自己の商品価値を低める選択ということになります。市場における労働者としての商品価値を高めることのほうがほんとうに自分の価値を高めることなのか、なんて思っていたら、自己選択に失敗した者という烙印を押されてしまいます。自己選択が市場における選択になってしまったというのは、そういうことを意味します。
 また、「家業」から自己選択へという個人化は、親や世代の上の周囲の人たちの経験というものを無価値にしていきます。労働者としての商品価値を高めるということは、親よりも商品価値の高い労働者になることを目標とするということも含み、結果としてたいてい親と異なる労働をすることになります。つまり、むしろ親や周りの世代上の人々の経験が役に立たないことが良いことになっていくわけです。
そして、このような自己選択の規範は、周囲の意見やしがらみからの解放を意味すると同時に、周囲に惑わされずに自分で合理的な選択をせよという規範でもあるわけですから、周囲とのつながりを断ち切っていくことを促します。そのとき、「家業を継ぐこと」は、自己選択が出来ないこと、不自由なことを意味するようになります。
しかし、ここでの自己とは、状況や周囲や自分の経験や歴史とは無関係に合理的な選択をする主体的自己です。けれども、実際には、海とばばさんの知り合いのように、「両親を見捨てて出て行くことなどできない」ということから「家業を継ぐ」ことを自己選択したように、人は周囲との関係の中で選択する「対話的自己」です。現代社会の「自己選択」の規範は、このような自己選択を自己選択として認めません。そのために、不本意ながら家業を継いだことが「やるせない」ことと感じられてしまうわけです。でも、「両親を見捨てる」ことはその人にとってもっと不本意だったから、家業を継ぐという選択をしたのでしょう(家業を継がないことが本当に両親を見捨てることになるのかどうかはまた別の問題ですが、その人にはそう感じられたということがここでは重要です)。私は、実際に行われているそのような「対話的自己」による選択に注目することが、いまの自己選択=自己責任という言説を崩していく上で重要なことだと思うのですが。そこでの「自己責任」は、市場での自己選択の損得の結果を自己責任とするという皮相的な「責任」ではなく、周囲の人々への応答の結果を自分の責任として引き受けるということを意味します。それは、いわば「しがらみ」を自分のものとするということでもあります。それは自分を作ってきたものでもあるのですから。
また、海とばばさんに「相変わらずかちかちですね」と言われそうなものになってしまいました。