「本当の自分」と本質主義

アキバさん、ようこそ。
現在、校務がやたら忙しく、「戦略的本質主義を乗り越えるには(3)」はもちろん、ブログに何か新しいことを書くという時間がありません。そこに、幸いにもアキバさんがコメントをくださったので、それに答えるということができます。
アキバさんは1月27日の記事にコメントをくださったので、他の人は気づきにくいでしょうから、コメントを再録しておきましょう。

横から,失礼します。現在,大学院で教育に関する研究をしておりますアキバと申します。本橋哲也さんの新書を読んで,「戦略的本質主義」について知りたくなったので検索したところ,このページにたどり着きました。「〜乗り越えるには(3)」が,出る前にちょっと質問させていただきたいのですが・・。
浅野さんのいう〈選択的コミットメント〉のような把握の仕方には同意するのですが,その場合(意識的か無意識かはわかりませんが)状況や場面に応じてキャラを選択する「本質=本当の自分」が前提とされているような気がするのです。小田さんのいうところの“『本当の自分』などありはしないのだということをはじめから認めてしまう”のはいったい「誰」なのでしょうか?「本当の自分」などいないのだ,と否定する「私」こそが(キャラを選択する)「本質」なのではないかと思うのです。これが「戦略的本質主義」に当たるのかはわかりませんが,浅野さんが批判している「本当の自分」論の罠に再びハマっていくような気がして,どう考えたら良いのかわかりません。すでに他で説明されていたのでしたら,申し訳ありませんが,小田さんの見解を教えていただければと思います。

 まず、「本物の自分」ということを意識するのは、浅野智彦さんがいう〈選択的コミットメント〉を実践しているときだということが大事な点だと思います。状況や場面やどの仲間集団といるかに応じて「キャラ」を変えているときにはじめて、どの「キャラ」も本物の自分ではない、「本物の自分」はどこか他にあるはずだという意識が生じるのでしょう。
 それに対する、浅野さんをはじめとするポストモダニズムの処方は、そのような「キャラ」の外部に「本物の自分」があるはずだという意識が生じるのは〈選択的コミットメント〉を実践していながら「首尾一貫した自己」というモダンのイデオロギーをまだひきずっているから起こるのであって、そのようなイデオロギーから脱して、どの「キャラ」もそれなりに自分らしい「私」だと認めていくというものでした。
それに対して、アキバさんは、「『本当の自分』などいないのだと否定する『私』こそが(キャラを選択する)「本質」なのではないか」と書かれています。ポストモダニズムは、キャラを選択する「私」が「キャラ」の外部にある(いくつもの仮面の下に素顔がある)ということを否定するわけですが、アキバさんの疑問は、その「本物の自分」を否定する「私」は、「本物の自分」や「素顔」とどこが違うのかというものでしょう。ポストモダニズムの答えは、それも、「首尾一貫した自己」を、「キャラ」や「仮面」の外部に想定しているモダンのイデオロギーだと言うでしょう。つまり、確かにキャラを選択する「私」と、「本物の自分」などいないのだと否定する「私」は、両方とも「キャラ」の外部にある「本物の私」という点では同じであり、それを否定しているのだ、というわけです。言い換えれば、「私」は表層にしかなく、キャラを選択したり、「本物の自分」なんてないと否定する自分が、表層での戯れとは別に「深層」にあるのだという考え方そのものを否定しているのです。
 ホームページの論文*1でも書きましたが、そのようなポストモダニズムに対して、〈選択的コミットメント〉だけでは安定した自分が意識できず、不安を増大させるから「本物の自分」を想定するのであって、それを否定したところで不安やその実践の荷の重さは解消しないとか、〈選択的コミットメント〉は、ネオ・リベラリズムの資本と労働のフレキシブル化に適応したスキルにすぎないといった批判が出されています。そういった批判に対して、浅野さんはうまく答えていません。
 ポストモダニズムとは異なる処方が、安定した自己、本質的なアイデンティティを確立することがやはり大事だという議論です(土井隆義さんの議論は突き詰めるとこれに近いものになるでしょう)。この「安定した自己」を「自律し首尾一貫した主体としての自己」とすれば、モダンへの回帰ですし、「確固たる共同体の一員としての自分」とすれば、コミュニタリアニズムとなるでしょう。そして、「本物の自分」などないということを認めたうえで、ネオ・リベラリズムの資本と労働のフレキシブル化に対抗する戦略として、「本物の自分」という本質を認めるとなれば、アキバさんのいうように、戦略的本質主義となるでしょう。
 けれども、それらの処方はどれもうまくないというのが、私の主張です。それについては、「戦略的本質主義を乗り越えるには(3)」で述べたいと思います。