職場での「関係の過剰性」

養田季伊さん、コメントをありがとう。抽象的な議論を書いても、このように具体的な話に引き戻してくれるコメントをもらえるところがブログのいいところですね。
 さて、養田季伊さんは、知人の1人がアルバイト先をクビになったという話から、クビにした側もその知人も「お互いがそのロールプレイの範疇によってのみしか関係を構築しないため、『関係の過剰性』も生み出さない」ことから起こる悲劇なのではと書いています。そして、

もし、「代替不可能性に基づく社会的連帯」が彼らの働く場に生まれているのであれば、彼はクビにはならなかったのかもしれないなんて考えちゃいました。

と。職場での人間関係は基本的には代替可能な役割関係であり、またそうあるべきだとされています。友人の間では許される言動が上司からされればセクハラとなるのも、職場での役割関係(ドライな関係)から逸脱しているゆえに非難されるべきものとなるわけです。しかし、職場という空間に一緒にいるだけで、その関係は役割関係による有機的連帯(代替可能な関係)以上のものとなるというのが、「関係の過剰性」という用語で言いたいことなのです。
アルバイトと雇用者とのあいだでも、一緒にいる以上、なんらかの関係の過剰性は生じるわけです。もっとも、アルバイトや派遣のように非正規雇用の労働者の場合、職場という同じ空間を共有しているという同僚意識が正規社員に比べて「クビにする側」に希薄であるため、代替不可能な関係(関係の過剰性)も希薄となり、心理的にもドライな関係を保ちやすく、クビにしやすくなります。つまりそもそも、非正規社員が増加している理由が、「労働力のフレキシビリティ」、つまりクビにしやすい労働力を増やして、労働力をダンピングさせるためなのですから、そのような目的で雇用した労働者との間に「代替不可能性に基づく社会的連帯」を持とうとはしないのでしょう。
そのようなドライな関係(いま思ったんだけど、「ドライな関係」っていうのはもしかして死語?)のほうが、セクハラやサービス残業も拒みやすくなり、なにより面倒くさくなくていいという利点が、被雇用者の側にもあるわけです。しかし、他方で、労働力のダンピングという不利益も引き受けなくてはならなくなります。正規社員が、非正規社員にしかなれないのはそいつの自己選択の結果で「ワーキング・プア」は自己責任だと思っているあいだは、「代替不可能性に基づく社会的連帯」は生じないでしょう。
 しかし、それは不可能であるわけではありません。エドワード・P・トムソンの大著『イングランド労働者階級の形成』(青弓社)は、資本主義初期にそのような社会的連帯がいかにして生じたのかを論じたものです。そして、そのことは、日常的な〈顔〉のある関係からなる真正性の水準では、つねに「関係の過剰性」は生じること、その延長上に「〈かけがえのない私〉だからこそその私はつねに別の誰かでありえた」(クビになったのは、比較可能な能力や属性とは無関係に、私でありえた)という想像による「代替不可能性に基づく社会的連帯」が生まれることを示していると思います。つまり、〈かけがえのない私〉(個の代替不可能性)を取り戻すことと、見知らぬ誰かとの社会的連帯の回復とは同じことの裏表であり、それは、〈顔〉のある関係からなる真正性の水準においてこそ始まるということです。