戦略的本質主義を乗り越えるには(2)

少し思い出したので、「戦略的本質主義を乗り越えるには(1)」の続きの(2)を書きましょう。

戦略的本質主義が「本質的アイデンティティ」を必要なものとしているのは、カテゴリーによって差別されたり周縁化されたりしている弱者が、差別している側である支配的マジョリティに押し付けられたカテゴリーの「本質」をいったん引き受けることで、そのカテゴリーに属する他の人々とともに異議申し立てをすることが可能になるからであり、また、そのマイナスの価値を刻印された「本質」を肯定的なものへと逆転させること(アフリカ系アメリカ人の運動での「ブラック・イズ・ビューティフル」という標語が好例です)によって、マイナスの刻印を押されていた自己を肯定できるようになるからです。
それに対する批判は、たいてい次の2点になります。一つは、自分は(脱)構築主義に立つのに、周縁化されている他者に対して本質主義を認めるという態度には、「そのような段階も君たちには必要だよ、けれども、その段階を過ぎれば、その本質主義的言説を卒業するんだよ(自分たちはとっくに卒業したけど)」といった、シニカルないやらしさがあるというものです(フランツ・ファノンのサルトル批判はそのいやらしさを批判したものでした)。そして、批判のもう一つは、押し付けられたカテゴリーを(価値を逆転させて)引き受けるとき、そのカテゴリー内部の多様性や異質性を抑圧してしまうというものです。たとえば、同性愛者というカテゴリーを、「同性愛は生まれつきのもので変えられないものだ」という本質主義的言説によってゲイ解放運動をしたとき、異性愛者から同じくそのカテゴリーを押し付けられたバイセクシュアルな者や異性装者や、男女のような異性愛カップルを模倣したゲイ・カップルは、肯定的な価値へと逆転させた「本来的なゲイ」という「本質」に違和感をもったり、あるいは「本来的なゲイではない」として抑圧されたりするということです(ゲイ解放運動の場合、「同性愛は生まれつきのもので変えられない」という本質主義的言説が、ゲイを自然に反するものとか、治療=矯正の対象とする支配的イデオロギーに対する有効な戦略だったということも考慮しなければなりませんが)。
 上のような批判は、私も、何回か行なっています(例えば『Web版 日常的抵抗論』*1でも行なっています)。それに対する戦略的本質主義者(ってなんか変ですね)からの反論は、例えば、本橋哲也さんが『ポストコロニアリズム』(岩波新書)で書いている、次のようなものになるでしょう。

戦略的本質主義による自己の本質化とは、自己を自分ひとりのなかに自閉させてしまうことではない。そうではなくて、自己が自己であるために他者に開かれてあること、他者と〈本質〉を共有することによって、新たな自己を不断に創り続けること。それが戦略的本質主義という運動のありかたなのである。

しかし、このようなことが本質主義的言説を用いてどのように可能になるのかは、本橋さんは書いていません。それに、そのようなことが可能だとしても、これは、「〈本質〉を共有する他者」と同質的な同一化をしていくだけに終わる可能性が大です(〈本質〉を共有できない他者は排除されるわけです)。
けれども、今回、いただいたコメントを基に考えたことは、そのような批判と反論とは違って、戦略的本質主義による「本質的アイデンティティ」によっては、そもそも自己を肯定することができないのではないかということでした。言い換えれば、それは、「かけがえのなさ」を求めているにもかかわらず、「個性」や「本物の自己」を求めることと同様に、「自分のかけがえのなさ(代替不可能性)」を否定してしまうことにしかならないのではないかということです。というのも、個のかけがえのなさ=代替不可能性は、個の役割や個性や能力といった比較可能で代替可能な属性(たとえナンバーワンでも、例えば「世界一のパティシエ」という役割や能力ももちろん代替可能なものです)とは無関係に(かつそれらの属性をもすべて含めて)、存在することそのものを肯定することです。
その「個の代替不可能性」は、自己選択の結果として生まれるものでもありません。その点は「本質的アイデンティティ」と同じですが、それは同一性も必要としていません。「本質的アイデンティティ」は、かけがえのなさを比較可能なものにしてしまうと同時に、同質的なものにもしてしまいます。そして、それは、戦略的本質主義のもう一つの目的である同じそのカテゴリーに属する他の人々とともに異議申し立てをするという社会的連帯をも困難にしてしまいます。あるカテゴリー内部の差異からくる個々の違和感を、カテゴリーを細分化する方向で解消しようとするからです。患者会などの自助グループやSNSなどにも見られることですが、同じ病気に罹った者でも、病状の違いや、ジェンダーの違い、シングルか既婚者かという違い、あるいは階級の違いなどで、同じ受苦の経験とは思えないほどの差異がある場合、例えば、もっと自分と近い人々のグループを作って、その違和感をなくしていこうとする傾向があります。同じように、本質主義的な戦略をとる場合、アフリカ系アメリカ人といったカテゴリーでも、階級やジェンダーや地域などの違いによって、「同じ仲間」と思えないほどの違和感がある場合、もっと同質的なカテゴリーへと細分化されることがあるわけです。
問題は、では「個の代替不可能性」によって社会的連帯がはたして可能となるのか、ということです。それは、社会的役割やカテゴリーを無化してしまうのだから、社会的連帯を不可能にしてしまうのではないかという疑問がでてくるでしょう。しかし、私は、「個の代替不可能性」こそ自己肯定の基盤でありかつ社会的連帯の基礎となるものだと考えています。そのポイントは、「個の代替不可能性」に含まれる「根源的な偶然性」と、「個の代替不可能性」が出現する「〈顔〉のある関係」に見られる「関係の過剰性」にあります。
それについては、改めて次回以降に説明しましょう。ほら、だいたい繋がったでしょ、説明はよく分からないものになったけど。