教養としての文化人類学あるいは文化人類学の効用

 養田さんが、

小田さんのブログは学術的なお話が中心なので、たまには日記のようなものがあると、とっつきやすいのかもしれませんね。そちらのほうも期待です。(笑)

と書いてくれたことに甘えて、「戦術的本質主義を乗り越えるために(3)」を書く前に、日記風のものを挟みましょう。といっても、きょう買い物に行ってコートを買ってきたといった身辺の話(これは本当の話です)ではなく、タイトルにもあるように学術的(?)な雑記です。もともと「研究の周辺」といった話を気楽に書く場があってもいいかなとはじめたブログなので、そこからはあまり離れないのですが、ここのところのブログの記事がどうも「気楽に書く」ものでなくなっていましたから。
 去年の秋あたりから所有論に絡めて「コモンズ(共有地)」について考えようと、断続的に関連するものを読んでいるのですが、先日、「コモンズの悲劇」について論じている、宇沢弘文さんの『社会的共通資本』(岩波新書)を読んで驚きました。「コモンズの悲劇」について論じている章である第2章「農業と農村」のなかに、次のような文章を見つけたからです。

農の営みは人類の歴史とともに古い、というよりは、人類を特徴づけるものとして農の営みの意味づけが存在するといってもよい。(47頁)

これでは、人類史の大部分を占め、「人類を特徴づける」文化のほとんどを生みだした遊動する採集狩猟社会が、人類の歴史から排除されてしまっています。いや、ここでの歴史は文明以後の文字をもった社会の歴史を意味するということかもしれませんが、そうなると、採集狩猟社会には歴史がないという偏見がまだ生きていることになります。定住革命以前の人類の文化がどれほど豊かであるのかについては、やはりレヴィ=ストロースの『野生の思考』や、それを意識して書かれている中沢新一さんの『人類最古の哲学』(講談社選書メチエ)を読むのがいいでしょうが、しかし、高名な経済学者が人類学的な教養を身につけていずに、上のように書いてしまうのは、人類学にとっての反省材料というか発奮材料でしょうか。
 もっとも、宇沢さんの本の名誉のために付け加えておけば、「コモンズの悲劇」の議論はとても参考になりました。「コモンズの悲劇」というのは、生物学者のG・ハーディンが1968年に『サイエンス』誌に発表した論文のタイトルで、共有地である牧草地について、たとえこれ以上利用すれば牧草が枯渇して条件が著しく悪化することが分かっていても、一人ひとりにとって家畜を増やすことによって得られる利益が牧草地の条件の悪化によってこうむる限界的被害より大きい限り、家畜を増やして過放牧をやめないことが合理的だから、その結果、牧草地は消滅してしまうというものです。この議論は、新古典派経済学者によって、共有の悲劇を避けるには、その牧草地を私有地に分割して、個々人がもつ環境に対する責任を明確にし、資源を効率的に配分することが必要だという議論に使われました。その後、人類学者などから、実際の共有地にはこのような悲劇は起こらないという反論が具体的事例によって数多く出されています(それについては、秋道智彌さんの『コモンズの人類学』人文書院などを参照)。そして、宇沢さんも指摘しているように、共有地をめぐる新古典派の議論は、もともと前提としている「共有」に対する否定的な理解によるものであり、それはそのままレーガンサッチャーのネオ・リベラリズムにつながるものです。宇沢さんは、それに対して、

新古典派的発想に立って、「共有地の悲劇」を分析しようとする人々は、共通して、私有制か、あるいは国家権力による統制かという二者択一のかたちで問題を提起する。そして、国家権力による統制がもたらすさまざまな弊害を論じて、共有地を分割して、私有化し、市場のメカニズムを貫徹させるときにはじめて、私的合理性と社会的合理性とが矛盾なく統合されるという主張を展開する。しかし、現実に存在し、かつ機能してきた多くの共有地に対して、このような二者択一的なアプローチをすることはできない。(81頁)

 そして、宇沢さんは、

マリノフスキーが、その古典的なトロブリアンド諸島における所有制度の研究で明らかにしたように、コモンズの統制者は、私有制か、国家統制か、という単純な二者択一的関係ではない。(85頁)

と書いてもいます。つまり、さすがちゃんと古典的な文化人類学的な教養は身につけておられ、それを用いているわけです。
 「コモンズ」の議論にこれ以上深入りするのはやめておきますが、人類学的教養の重要性とともに、文化人類学の効用という話にそれを結びつけましょう。「コモンズの悲劇」の議論が、多くの人びとを惹きつけ、さまざまな議論を呼んだのも、また、新古典派のように私有化(民営化・規制緩和)の優位に利用されたのも、この議論が「具体的な」議論だったからでしょう。具体的にものを考える、あるいは具体的なものに引きつけてものを考えるとき、ひとは当然身近なものにひきつけて考えます。ところが、具体的なものを具体的なままで考えるというのは思いのほか難しいのです。それは往々にして、すでに頭にある理論を具体的なものに投影してしまうものになります。新古典派経済学者の議論はまさにその典型です。
また、身近なものにひきつけて具体的なものに寄り添った思考をしようとすると、身近なものだけに、その社会の支配的なイデオロギーに囚われないように考えることが難しくなります。したがって、支配的イデオロギーとか「常識」から自由になろうとすると、思考はどんどん抽象的にならざるをえません。それは、身近ではないものについての思考になっていくわけです。そうなると、生活世界から遊離した思考、普遍性の罠にはまってしまうような思考になってしまいます。それに対して、文化人類学では、具体的なものに寄り添った思考が、そのまま身近ではないものについての思考となります。つまり、人類学者は具体的なものだけれど自分には身近ではないものに寄り添って思考するわけですから。そこに、文化人類学の効用、すなわち一つの社会で考えるという限界を超えている学問のもつ効用があるというわけです。
さて、これって息抜きになっているのかな。