「感情労働」と「キレる」客

 久しぶりのブログへの執筆です。忙しくて、自分でネタを考えて書く暇がありませんでした。これまでけっこう書くことができたのは、書き込んでもらったコメントをネタにして書いたりしていたからですが、こちらが書かないとコメントももちろん書き込んでもらえず、コメントを書き込んでもらえないと書くネタがなく、という悪循環でご無沙汰したというわけです。
きょう沈黙を破って(?)書こうと思ったのは、ある偶然の一致のせいです。きょうの朝、電車の中の雑誌『AERA』のつり革広告で「『感情労働』時代の過酷――ひと相手の仕事に疲れ果てるとき」という記事の見出しが目に留まりました。ちょうど偶然にも、きょうの講義で「感情労働」の話をする予定だったので、参考になるかなと乗換駅の売店で早速買って電車の中でぱらぱら読んでみました。記事そのものは講義の参考にはあまりなりませんでしたが、まあ、その日の朝に読んだ雑誌を資料になるかなと考えるほうが甘かったわけです。しかし、ひとつだけ授業で触れた内容があります。そのことを話す前に、まず「感情労働」についておさらいをしておきましょう。
感情労働」という概念は、アメリカの女性社会学者のアーリー・ホックシールドの『管理される心――感情が商品になるとき』(世界思想社、2000年、原著は、The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling, 1983)で提唱したものです。ホックシールドは、アメリカの航空会社の客室乗務員の調査を通して、客室乗務員たちが重い食事カートを押すような肉体労働や緊急時の準備などの精神労働とは別に「感情労働」も行うことが要求されていることを明らかにしました。感情労働とは、公的な場で観察可能な表情と身体的表現を作るために行う感情管理(感情マネジメント emotion management)を賃金と引き換えに行うことです。具体的なイメージを得るために、ホックシールドの本に引用されている『ルーカス・ガイド』というガイドブック1980年版で、航空会社のサービスに関して第1位にランキングされたデルタ航空についての記事を紹介しておきましょう。

笑顔はもちろんのこと、「他に何かお持ちするものはありませんか、奥様」というような心遣いのある問いかけとともに飲み物が差し出された。その雰囲気は洗練されたパーティのようだ――それに応じて乗客も上品な客のように振舞っていた。……調査員が一、二度、わざと厄介な要求をしてスチュワーデスたちを試したが、彼女たちはいやな顔をすることもなく、フライトの終わりにはそろって整列し、変わらない明るさで別れの挨拶をしてくれた。……
乗客たちは不自然な笑顔や作り笑いを見破ることには鋭く、またフライトを〈満喫〉することを心待ちにして搭乗する。私たちのなかには、「なぜって楽しいからだよ」と、次の機会もデルタで旅行することを楽しみにしていた者もいた。[ホックシールド 2000:6-7]

ここから分かることは、客室乗務員には作り笑顔ではなく(それは乗客に見抜かれてしまう)、「心から」楽しく温かい気持ちで接客することが求められているということです。ホックシールドによれば、客室乗務員はその訓練の際に、「失礼な乗客」を「不適切に扱われた乗客」と呼ぶようにトレーニングされていたそうです。つまり、その失礼な態度は、適切に接しなかった客室乗務員の側に原因があるとされるわけです。そうすることによって、客室乗務員は失礼な乗客に対して怒りの感情をもつことができなくなります。どんなに失礼な乗客の態度も、自分たちのほうに非があることになるからです。このように、客に対する「怒り」や「不機嫌」といった感情を隠すのではなく、そのような感情を起こらないようにするのが、「感情管理(感情マネジメント)」です。
 ところで、ホックシールドがいうように、私たちは日常生活においても感情の管理を行っています。家でホームパーティをするときには、感情を管理して、お客さんに疲れや苛立ちを見せないようにします。あるいはもっと親しい友だちや恋人、家族に対してもそのような感情管理を多かれ少なかれ行っています(親密な関係において感情管理をするのは現代社会、つまり後期近代の特徴でもあります)。けれども、そのような感情管理が労働として売られるとき、すなわち感情管理が「感情労働」になると、ある相違がでてきます。私的生活での感情管理は、お互いの間での「贈与交換」としてなされます。ホームパーティに集まった客はホストに対して楽しい気持ちになる義理が生じます。つまり、その関係は一方的ではなく、私生活における怒りの抑制や感謝の念の表明などの感情管理はいわば「贈り物」であり、ホストのその贈り物に対して客のほうも感情管理をお返ししなければならないわけです。
しかし、感情管理が賃労働としてなされるとき、その関係は一方的なものとなります。客室乗務員は笑顔を見せなくてはならないし、それだけでなくその笑顔が作り笑いではなくその後ろに本物の温かさのようなものを醸し出さなくてはなりません。けれども、乗客のほうは(ホームパーティの客とは違って)笑わないことを選択できるのです。この不平等な関係における感情管理が、それを強制される人たちにどのような影響を与えているのかということを問いとしたのが、ホックシールドの「感情労働」の研究だというわけです。
マルクスは、賃労働において起こる問題について、「疎外 alienation, Entfremdung」というヘーゲルの概念を用いて説明していましたが、ホックシールドは、感情労働でも「疎外」が起きているといいます。資本主義のもとでの賃労働では、自分の肉体の働き=労働とその成果が自分にとって「よそよそしいもの」(=alien,fremd)になる、つまり疎外されているとマルクスは述べていました。マルクスの考えていた労働は工場での肉体労働だったわけですが、感情労働では、自分にとって「よそよそしいもの」となるのは、工場労働者のように肉体とその働きではなく、自分自身の感情と感情管理です。ホックシールドは、ある客室乗務員の、「長い仕事を終えて疲れきっているときでもくつろげないことがあります。大笑いをしたり、友だちに電話したりします。仕事中は自分をハイな気持ちにさせていますから、その何となく不自然な高ぶった気持ちからなかなか脱け出せないのです」という言葉を紹介しています。この言葉は、自分にとって「よそよそしいもの」となった自分の感情をどう扱っていいかわからない状態を表わしているといえるでしょう。
そして、この「疎外された感情労働」は、現代では、客室乗務員やマクドナルドなどのファーストフードの店員だけではなく、看護士や介護・福祉労働者、医者や教員などのほとんどの人を相手にする職業に要求されています。だからこそ、『AERA』の記事にもなるわけです。
 さて、上のような感情労働の説明を授業でしたわけですが、ここまできたところで、『AERA』の記事の内容の一部を紹介したのでした。それは、「感情労働」のサービスを受ける顧客が、理不尽な「いちゃもん」をつけたりキレたりするという「キレる客」現象について書かれている部分です(記事の小見出しには「『いちゃもん化』社会」とありました)。記事では、運動会の場所取りで前夜から校門前に並び、近隣住民から注意を受けると「学校の対応が悪い」とキレる保護者といった例など、学校での保護者対応の難しさを研究している大阪大学の小野田正利教授の言葉を援用して、子どものころからコンビニやファミレスでの「感情労働」のサービスを受けて育ったせいで、「何であれ『消費者』は丁寧に扱われることがサービスの最低条件だという、ある種ゆがんだ」権利意識が、そのような保護者を生んでいるという論調になっています。そして、もう一人の専門家として精神科医和田秀樹氏のいう「超消費社会」のせいだという次のような言葉が引用されています。

生産が消費に追いつかなかった時代はモノを作った側が強かったけれど、モノがあふれて消費不況が慢性化した今ではサービス合戦しかない。その構図から「お客様」の側にもものすごい甘えが許される環境ができて、月並みなサービスでは満足できない消費者たちがたくさん育っちゃった。[『AERA』No.25,17頁]

つまり、生産中心社会から消費中心社会になり、そこで登場してきた顧客に対する感情労働が客を甘やかしつけあがらせた結果、理不尽にキレる客がたくさんできちゃったという議論です。たしかに、私も居酒屋などであそこまでよくできるなと思うほど、店員を怒鳴りつけている客を見ることがあります。それは、自分が丁寧に扱われるべきだと思っているから、それに反するとキレるのだといえるかもしれません。しかし、それは、「キレる客」の発生の説明としてはほんの一面しか説明しておらず、学生でもぎりぎりの合格点しかあげられない解答でしょう。1980年頃の航空機に搭乗した乗客はすでに十分に「ものすごい甘えが許される環境」にいました。なにしろ、「失礼な乗客」も「不適切に扱われた乗客」として見なされ、非は客室乗務員にあるとされていたのですから。では、その頃から、乗客は「キレる客」として理不尽にふるまっていたのでしょうか。上に引用した『ルーカス・ガイド』にはこう書かれていました、「その雰囲気は洗練されたパーティのようだ――それに応じて乗客も上品な客のように振舞っていた」と。それが適切なサービスだからであり、それに慣れるとちょっとでもほんとうに「不適切に扱われる」とガマンできなくなるのだというかもしれませんが、上流階級の人たちのように、ふだんから丁寧に扱われ慣れている人たちが、公的な場で理不尽に怒るなんてことは、みっともなくてできないのではないでしょうか(上流階級に知り合いがいないので分かりませんが)。そして、居酒屋でキレている客も、たいてい、一緒に来た仲間の客には丁寧な態度で接しています。
「キレる」客の出現の説明には、ホックシールドのいう「感情管理」の現代社会での蔓延を考慮しなくてはならないでしょう。そして、「感情管理」は、「ほんとうの自分」という概念と密接に関係しているということもポイントです。すでに述べたように、管理された感情は自分のものではなく(工場労働者にとって労働の成果が自分のものではなく、自分にとって敵対的な「よそよそしいもの」であるように)「よそよそしいもの」でしかありません。そこで、営業用の笑顔とは別に「ほんとうの私」がその内側に残されていると思い込もうとします。それによって、自分がほんとうは誰なのかを実感できる領域を守ろうとするわけです。しかし、厄介なことに、私たちは、私生活でも「感情管理」をしています。しかも、現代社会では、そのような「疎外」とは無縁であるはずの、友だちや恋人や家族といった親密な関係でも感情管理をしています。現代社会は、親密な関係でも相手に不愉快な気持ちを感じさせずに楽しくいてほしいという「やさしさ」(これが感情管理です)が蔓延している社会です。そのことは、日常生活においても管理された感情とは別の「ほんとうの私」を実感できる領域が現実にはほとんどどこにもないということを意味します。
ほとんどないと言いましたが、現代社会でも感情管理をしなくてもいい場面があります。それは、自分が「顧客」になるときです。日常生活では相手が感情管理をすれば、自分も感情管理で「お返し」しなくてはなりません。しかし、それが商品化された感情労働の場面では、顧客のほうは感情管理を返す必要はありません。まあ、多くの人はそこで「キレる」ことはないのですが、日常生活において仲間内でも感情管理をしていて、しかも「疎外」されていると感じている人にとって、自分が顧客であるときが唯一、その感情管理をしなくてすむ機会となるのです。いいかえれば、客は「キレる」ことによって管理された感情とは別の「ほんとうの私」を実感できる機会を得るわけです。その「ほんとうの自分」という実感が勘違いであり、しかも無関係な傍から見れば「みっともない」ものであっても、「よそよそしいもの」ではない自分の感情を取り戻し、「ほんとうの自分」を実感したいという欲望をもつからこそ、客は「キレる」のだというのが、きょうの講義の結論となったのでした。