「自己の確立」と「共依存」について

Morutanさん、コメントありがとう。このところ忙しくて応答が遅れてすみませんでしたが、以下のような質問をいただいていましたね。

ところで質問なんですが、ぼくは「メタな位置をとることによって対話の可能性を排除してしまうことの損失は情報力が少なくなることにある」ように思うのですが、……「対話(あるいはそれを通じた対話的自己)を排除することによって自己の代替不可能性を否定する」というのはどういうことでしょうか? 『対話的関係からしか生まれない』とされているのですが、これは「自己の代替不可能性は他者との関係性によってのみ浮き上がってくる」ということでしょうか?
ぼくはそのあたりは少し慎重な態度をとります。前提として、自己の確立(あるいは情報収集)のために他者との対話が有効なことは分かるのですが、その際、ただ「おしゃべりしとけばいいやー(ともだちいっぱいのほうがいいよー)」というのもどうかなぁ、と。、と。他人との関係を重視しすぎてそちらに流されてしまうんじゃないか、と思ったりします。んで、ある程度自己が確立したもの同士でないと対話は成り立たないように思うのですが・・・どないでしょう?

まず、後半の「ある程度自己が確立したもの同士でないと対話は成り立たないように思うのですが」というほうの疑問から応答しますと(答えにはならないかもしれませんが)、「自己の確立」ということがどういうことかによりますよね? 「他人との関係を重視しすぎるとそちらに流されて自己の確立ができない」ということを前提とされているようですが、「他人との関係に引きずられて」とか「他人からの影響に流されて」ということが、逆に私にはどうも実感できないのです。
レヴィ=ストロースは、「私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起こる場所のように私自身には思えますが、『私が』どうするとか『私を』こうするとかということはありません。私たち各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです」(『神話と意味』)と語ったことがありますが、この言葉のほうが私には実感としてピンときます。そして、ここには「流される私」もないのではないでしょうか。「『私が』どうするとか『私を』こうするとかということ」という「自己」を確立しようとしてはじめて、「流されてしまう自己」というものができてしまうのでしょう。例えば、一時、「アダルト・チルドレン・ブーム」のときに心理学で「共依存」ということが言われました。「他人に流されて引きずられる私」の例として「共依存」が適切かどうか分かりませんが、これは他人に依存されないと自己がなくなるような感覚をもつ者どうしの間で成り立つ関係です。いいかえれば、互いに「相手が私をこうする」か「私が相手をこうする」かという、相手をなんとかコントロールしようとする闘争関係となっています*1。心理学には詳しくないので、不正確になるかもしれませんが、心理学的処方箋は、「自己を確立して他者と自己をうまく分離せよ」(どうやっては知りませんが)といったものになると思います。しかし、共依存はもともと、「『私が』どうするとか『私を』こうするとかということ」という「自己」を確立して、その上で相手をコントロールしようとする、「自己の確立」それ自体から生じる関係と言えるのではないでしょうか。
それに対して、「私というものは、何かが起こる場所」だという実感からは、そのような「他人に流されて引きずられる私」といった自己は生じないでしょう。そして、私にはそのような自己のほうが、はるかに安定した自己の基盤となり、自己の代替不可能性に即しているように思います。「対話」とか「対話的自己」ということを安易に使ってしまったので疑問に思われたのでしょうが、「対話的自己」(ちょっとバフチンを意識してそのような言葉を使ってしまったわけですが、これは出来の悪い研究者の悪い癖ですね)という語でイメージしていたのは、「対話*2を含めた、ものごとが起こる交叉点」としての自己です。それに対して、共依存の関係にある自己は、超越的自己と作られ方が一緒ということです(超越的自己を確立しようとして失敗した自己と言ったほうがいいかもしれませんが)。
そして、自己の代替不可能性とは、相手や相手からの情報をコントロールすることからくるものではなく、自己が「出来事の交叉点」(これが根源的偶然性ということですから)であることからくるものだと思います。それには〈顔〉のある他者からの承認が不可欠ですが、その「承認」は共依存での「相手が自分を頼っている」とか「相手が自分に依存している」といったこととはまったく違っています。そのような他者関係は比較可能で代替可能なものとなっていて、そこにはもはや〈顔〉はありません。
 あまり応答になっていなかったかもしれません。最後に、morutanさんのコメントとは無関係の蛇足を。「自己が確立したもの同士でないと対話は成り立たない」という言葉は、「日本人というアイデンティティを確立していないと他国を尊重することができない」という言葉とどこか似ていませんか? まあ、たいていの場合、他国の尊重に進むことはなく、他国に無関心になるか、そうでなければ他国への軽蔑・嫌悪を持ちながらその他国なしには日本人となれないという「共依存」になるだけのように、私には思えるのですが。

*1:ネットの「ウヨク」と「サヨク」も互いに相手を軽蔑しながら相手がいないと自己がなくなってしまうという点では「共依存」なのかもしれませんね。

*2:この場合の「対話」は情報の交換のためのものではなく、むしろ情報量はゼロに近いものです。