オリエンタリズムと対話的自己について

 黄色い犬さん、養田さんコメントありがとう。
 前回の4月18日のエントリは、たしかに、人を怒らせてしまうだけの言い方になっていたかもしれませんね。その辺りは反省したいと思います(なかなか直りませんが)。本来ならば、内藤朝雄さんのブログで直接に表現の非礼さを謝るべきなのかもしれませんが、ちょっと覗いたら私の書いたこととはもう関係なく展開されているみたいなので、内藤さんはこっちのブログをもう読んでくれないかもしれないけど、ここで非礼を謝ります。
 黄色い犬さんのいうように、「オリエンタリズムがわかってるかわかってないかなんてことじゃなかった」のですが、分かりやすくと思ってサイードに由来する「オリエンタリズム」という語を使ったことで、「オリエンタリズムにならないように政治的に正しくしましょう」みたいなこととして受け取る人が他にもいるのかもしれないなと思いました。サイードが正しいか正しくないかなんてこともどうでもいいことなのですが。
 私はオリエンタリズムという語をサイードオリエンタリズム批判から少しはみ出した使い方をしているのですが、前回のエントリでは、そのことを説明するためのものではなかったので、たんに「自分たちのアイデンティティのために他者を他者化する」こととしか書いていませんでした。そこで、前回のエントリのことから離れて、私がオリエンタリズムという語で何を意味しているのかを、まず簡単に書きたいと思います。
 「他者の他者化」としてのオリエンタリズムは、自己を、自分の周囲の環境や関係から切り離し(「脱-埋め込み」)、自己の環境のすべてを眺望できる「超越的位置」におかれた主体とするためのものです。それは、歴史的には、西欧の白人ブルジョワ成人男性が、自己の一部に含まれながらも否定的なものとされているもの――依存性、怠惰や感情の表出、受動性、ヒステリー、性的放恣、同性愛、呪術的思考、暴力的行為など――を、植民地のネイティヴや下層階級、女性、子どもなど、絶対的な差異をもつとされる「他者」へ投影し、それを他者の本質とすることで創りあげた他者像を「鏡」として、自分をそれとは正反対の自律的な自己像=アイデンティティを確立するという形で始まりました。
 ですから、その他者は別にオリエントでなくてもいいのです。自分が自己の中で抑圧しなければ自律的主体が保持できないものを、「他者」に投影するということ、それによって自己を周囲の環境や関係からは自律した主体とみなせるようにすること、そうやって得られた超越的立場から全体を眺望することで獲得しうるとされる「真理」ないし「知」が「他者」に対する支配を正当化すること、それが「他者の他者化としてのオリエンタリズム」のポイントというわけです(最後のポイントがサイードのいうオリエンタリズムと重なります)。
 それが私にとって問題となるのは、「政治的に正しく」ないからではなくて、周囲の関係からなる対話的自己・状況的主体を排除してしまい、そのような対話的関係からしか生まれない「自己のかけがえのなさ」、「自己の代替不可能性」を否定してしまうからです(つまり、対話的自己を「しがらみ」に拘束された依存的な自己とすることによって)。
 ところで、養田さんの「ポストモダン」の話によって、少なくとも数万年のタイムスパンという視野をどこかで保持しなくてはならない人類学にとっての「モダン」「ポストモダン」ということを考えたのですが(というのも、現在「呪術と近代」というテーマに関連した本を編集している最中だからなのですが)、長くなりそうなので、その話はいずれまた(「いずれまた」って話が溜まっていくなあ)。