自分のアイデンティティのために他者を他者化することをオリエンタリズムという

 私はインドの専門家ではないし、もう誰か取り上げて批判していると思うので、放置しておいてもいいかなとも思ったのですけど、「釣り」にしてもちょっとひどすぎる「他者」の利用の仕方なので、あまり気は進まないけど、社会学者の内藤朝雄さんの「伝統を大切にする社会」というエントリを取り上げておきましょう。
 内藤さんは、インドに関する朝日新聞HPの2つの記事、

子供の5割、性的虐待経験 2割「深刻な被害」 インド
http://www.asahi.com/international/update/0413/TKY200704130356.html

異教徒との結婚にヒンズー組織激怒 学生2人の保護命令
http://www.asahi.com/international/update/0415/JJT200704150002.html

を並べて、次のように言います。

ところで、インドやヒンズー教神秘主義を理想化してきた人たちは、どう思うだろう。
ビートルズの人とか

宗教が大きな力をもっている伝統的な社会は、大概は、最低の社会だ。
貧富の差も激しい。
先進国の宗教的でない社会ほど、よい社会だ。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20070414

断っておけば、内藤さんの主旨は、

「日本の伝統」「日本の宗教」「日本の・・・」「日本の・・・」と騒ぐ者たちには、絶対に票を入れてはならない。
こういう人たちに力を持たせると、日本がインドのようになってしまう。

とあるように、安倍首相をはじめとする「ネオコン」批判なのでしょう。しかし、そのことを言うのに、自分が理解しようなんて思っていないインドという他者を持ち出すそのやり方はオリエンタリズム以外の何者でもないし、またその持ち出し方も稚拙すぎるでしょう。誰もが気づくことですが、「子供の5割、性的虐待経験 2割『深刻な被害』」という記事と、「異教徒との結婚にヒンズー組織激怒 学生2人の保護命令」という記事とは何の関係もないし、それらが「伝統や宗教を大切にする」こととも関係ありません。
2つ目の記事は、「ヒンドゥーナショナリズム」と呼ばれている、いわゆる「ファンダメンタリズム」による宗教紛争の一例ですが、イスラーム主義(イスラームファンダメンタリズム)と同様に、A・ギデンズのいう「再帰的近代化」の産物であって、「脱埋め込み」(人類学の用語ではでは「客体化」)された「ポスト伝統社会」における「創られた伝統」でしかありません。
社会学者なら当然分かっていて、日本の「ネオコン」と同様に、「再帰的近代化」において客体化された「伝統」を持ち上げることの批判なのかなと思ったのですが、それにしては、「ところで、インドやヒンズー教神秘主義を理想化してきた人たちは、どう思うだろう。ビートルズの人とか」という、思い切り的外れな言葉と合いません*1。もしかしたら(研究者としてはそのような無知はありえないとは思いますが)、いわゆる「ファンダメンタリズム」を「伝統社会」の「伝統」によるものと思っているのかもしれません。
ギデンズも一時は、ポストモダニストと同じように、「再帰的近代化」による「流動化」と「自由(=選択)の増大」に期待していたようですが、「ファンダメンタリズム」や「ネオコン」の出現でも分かるように、「再帰的近代化」の段階になって他者への暴力は酷くなっています。前にもこのブログで取り上げたコマロフ夫妻の「千年紀資本主義」論でも示されているように、例えば、日本より先に(IMFの主導による「構造調整」の名の下に)ネオリベラリズムを押し付けられたアフリカ諸国での「邪術者狩り」は、それ以前のローカル社会での邪術者狩りより暴力的になっています。
 とすれば、批判の矛先は、「再帰的近代化」や「ネオリベラリズム」に向かうはずですが、しかし、内藤さんの批判の矛先は、先進諸国にも見られる「再帰的近代化」ないしは「伝統の客体化」による暴力批判へと向かうのではなく、「伝統社会」に向かってしまっています(インドはもちろん先進諸国と同時代を経験している「ポスト伝統社会」であって「伝統社会」ではないのに)。それも、関連しない2つの記事を関連があるかのように並べるという、およそ研究者らしからぬやり方で(いくらブログだからといってもひどいでしょう)。それは、フランスでの極右によるマグレブ系移民出身者への暴力の記事と、フランスでのレイプの多さという記事を並べて、「ライシテ」(公共空間からの宗教の分離)の原則というリベラリズムをもつ国は暴力が多いという例証をしているようなものです。
 そして、そのやり方は、白黒の単純な二元論で「他者を他者化」するネオリベラリズムの手法(例えば、日本で少年犯罪は増えていないのに、罪を犯した少年や犯罪者を「怪物化」=「他者化」することで、不安をそのようにつくりあげた他者に転化して、自分たちのコミュニティからの排除と取締りを強化するやり方)と同じです。
 つまり、自分が批判しようとしているものと「思考の退廃」(オリエンタリズムと同じ白黒の単純な二元論)という点では同じになってしまっているわけです。このことは、70〜80年代までは互いに対立していたリベラリズムコミュニタリアニズムポストモダニズムが3つとも、ネオリベラリズムに取り込まれてしまって、批判的な効力を失いつつあることを示している一例だといえるのかもしれません*2
 釣られているようであまり気乗りのしない(どこか緩んだ)批判になってしまいましたが、社会学においても、「自分たちの主張やアイデンティティのために他者を他者化する」オリエンタリズムへの批判が「常識」となり、このような内輪の仲間コミュニティで頷きあうような「他者批判」がなくなっていくことを願いましょう。

*1:これが的外れであるのは、「ファンダメンタリズム」があたかもヒンドゥー神秘主義から誕生してきたものであるかのように書かれているからです。これでは、ムスリムによるテロをイスラーム神秘主義のせいだというのと同じです(まさかそう思っているのかな)。

*2:それは、リベラリズムだけではなく、たとえば、ポストモダニズムは、それが称揚していた「流動化・流体化」は、ネオリベラリズム期の資本と労働の流動化によって、「会社人間」を含めたあらゆる人びとに強制されるものとなって、体制化されてしまいましたし、コミュニタリアニズムは、ニュー・レイバーの政策にも示されているように、セキュリティへの不安を煽るという手法をとってしまっています。