「トラウマと心理学主義」予告

 Macbethさんは、前回の記事へのコメントの中で、

ところで、『個の代替不可能性』を掴んで(に掴まれて)生きる具体例として、私はPTSD症例を考えていました。ベトナム戦争以降の精神医学領域では、人の《受苦》体験を治療すべきPTSDの原因として(のみ)抽象化しているようにみえます。私はそこにPTSDを治療対象とすることの必要性を十分に認めながらも、それだけでいいのかしらという戸惑いも感じてしまいます。

と書いています。実は、私も前回の記事を書きながら、「受苦とトラウマ」ということを考えていました。トラウマという語は、PTSDや解離障害(多重人格)や人格障害といった精神医学の対象のみならず、「被害者学」「当事者主義」「記憶」「癒し」「カウンセリング/セラピー文化」といった現代のキーワードと関連しており、現代社会の心理学主義というイデオロギーの中心的な位置を占めているといっていいでしょう。
 そこで、近いうちに「トラウマと心理学主義」について考えてみたいと思います。とはいっても、成人後に思い出す幼児期の被虐待体験(親からの性的暴力等)が真実の記憶なのか偽りの記憶なのかをめぐるJ・ハーマンとハーマン批判者のあいだの「記憶戦争」について書こうというのではありません。それにあまり興味を惹かれないのは、「前世」(ここに「祖先の祟り」を入れても同じことですが)が原因で苦しんでいる場合、その前世が真実の前世か偽りの前世かを論争しても始まらないと思うからです。受苦の体験の「原因」を「前世」や「祟り」や「トラウマ」に求めるとき、その「原因」は、科学的な因果関係でいう「原因」とはまったく異なっているものだというのが、人類学的な研究の成果だと思うのですが、「偽りの記憶」論争での議論は、「前世」や「祟り」や「トラウマ」が科学的因果関係における「真実の原因」か否かで争っているわけですから。
 私が興味を持つのは、「トラウマ」を原因とするときの「象徴的効果」なのですが、それには「トラウマ」説の批判者の言説の「象徴的効果」も含まれます。予告編なので、一例だけ挙げておけば、トラウマ理論の批判者であるウルズラ・ヌーバーは『〈傷つきやすい子ども〉という神話』(岩波書店)において、トラウマ理論が被害者をネガティヴな過去に縛り付け、加害者を「告発」することが中心となっているため、被害者はいつまでも「救いようのない犠牲者」となってしまい、受動的な苦悩を能動的な行動に転換することを妨げていると批判しています。それに対する、ヌーバーのオルタナティヴな処方箋は、「自己憐憫から自己責任へ」、すなわち「自己決定」でき、「自己責任」をとれるポジティヴな主体となることが大事だというものです。もちろん、J・ハーマンらトラウマ理論家が、受動的な苦悩をそのままにしていいといっているわけではありません。むしろ、受動的な苦悩が病理的であるとする認識は共通しています。ハーマンは、長い間続いていた被虐体験が被害者を「受動的」にしているのであり、「抑圧された記憶」を回復し、それに言葉を与え、意識に上らせることこそ大事だというわけで(「記憶戦争」後の現在では、そのような言葉で語らせる記憶回復療法は廃れて、言葉にしない療法が中心のようですが)、激しく対立しているようにみえる論争の効果は同一のような気もします。それが「心理学主義」のイデオロギー効果といえるかもしれません。
 もっとも、例によって、J・ハーマン『心的外傷と回復』(みすず書房)、アラン・ヤング『PTSDの医療人類学』(みすず書房)など、基本文献を(買ったときの拾い読みだけで)ちゃんと読んでいないので、予告している「トラウマと心理学主義」もいい加減な話になることは間違いないところですが、「被害者学」や「当事者主義」、「弱者のエンパワーメント」と「受動性の重要性」といった議論あたりまで(つまり、ポストコロニアリズムの主題にも絡みながら、それとは違う人類学的スタンスという話まで)、広げられたらと思っています。