「アダム・スミス問題」と真正性の水準

 macbethさん、コメントありがとうございました。なるほど、macbethさんは「個の代替不可能性」と社会的連帯ということを受苦の場面から考察していたのですね。前回の記事は、macbethさんのコメントの趣旨を取り違えていたようです。そして、その趣旨のように、「個の代替不可能性」が露になるのは受苦の場面です。そこで、受苦(passion)と同情(compassion)の場面に立ち戻って考えてみましょう。
 macbethさんは、

小田さんの「個の代替不可能性」に関する説明・注釈のなかで、子どもを失った親への「子どもはまたできるよ」(あるいは失恋した男(女)への「他にも女(男)はいるよ」でもいいですが)という慰めが無効(不当といってもいいと思いますが)だと指摘されていました。その通りだと思いますが、その一方で子どもを失ったことや失恋からようやく癒えて、再び元気よく生きていけるようになるとは、その不当な慰めを受け入れられるようになった(ある程度不当ではなくなった)ということではないか。
私が「個の代替不可能性」を苛烈な「人間の条件」といい、文化や制度にはその回避策(というか緩和策)を目的とする(して然るべき)ではないかとコメントしたのはそういう趣旨でした。そのうえで、本来、回避できない「個の代替不可能性」に打ちのめされた人へのcompassionを基盤とした社会的連帯=緩和策と、そのコンパッションを無視する制度=隠蔽策とでは制度の目指す方向がまるで逆だというように考えました。このことは、たとえばアダム・スミス自身はコンパッションの重要性を指摘していたものの、実際にはそれを(忘れて・無視して)怠ることで隆盛をみた19世紀の自由主義経済のとそれ以降の事態を言い表してはいないかと考えたりしてみました。

と書いています。「子どもを失ったことや失恋からようやく癒えて、再び元気よく生きていけるようになるとは、その不当な慰めを受け入れられるようになった(ある程度不当ではなくなった)ということではないか」というのは、その通りです。柄谷行人氏も、単独性の議論をしている箇所で、ある男が失恋したときに「女は他にいくらでもいるじゃないか」という慰めは、その男は代替不可能な「この女」に失恋したのだから、不当だけれども、失恋の傷から癒えるということは、結局「この女」をたんに女という類(一般性)のなかの個としてみなすということだと書いています(『探究Ⅱ』)。つまり、macbethさんのいうように、その慰めが不当でなくなることが癒えるということだというわけです。
 そして、macbethさんのいう、露になった「個の代替不可能性」への2つの対処方法、すなわち、「compassionを基盤とした社会的連帯=緩和策」と「compassionを無視する制度=隠蔽策」の区別は重要ですね。Compassion(同情と訳されますが、passionを共にするという語義からすれば「共苦」と訳してもいいかもしれません)というのは、私の言い方をすれば、〈顔〉のある関係において成り立つものです。
受苦の場面には、2通りの「個の代替不可能性」が現れます。ひとつは、失恋や身近な人の死など、自分にとってかけがえのない人を喪失する経験、すなわち代替不可能な個の喪失において現れるものです。「喪」という過程は、その喪失で露になった個の代替不可能性を緩和していく=癒していくのにかかる時間を表しています。それは、macbethさんの言い方を借りれば、「その不当な慰めを受け入れられるようになる」過程です。もうひとつの「個の代替不可能性」は、compassionによる「慰め」において現れるものです。病に罹ったり愛する人を喪失したりして苦しんでいる人を目の前にするとき、その人の「受苦」を代わってあげることができないという「個の代替不可能性」が露になります。
 つまり、愛する人を喪失した人、macbethさんの言い方を使えば、「個の代替不可能性」に打ちのめされた人を目の前にしたcompassion=共苦とは、その受苦を代替出来ないというもうひとつの「個の代替不可能性」に打ちのめされることといえるでしょう。つまり、その受苦(passion)を代わってはあげられないという事実そのものが、その苦しみを共にすること(compassion=共苦)になるわけです*1
 macbethさんは、そのような「compassion=共苦」による「慰め=癒し」の過程で見られる連帯を「compassionを基盤とした社会的連帯=緩和策」と呼んでいますが、それはまさに「個の根源的な交換可能性=根源的な偶然性」と「個の代替不可能性」による連帯と言い換えられるでしょう。そして、このような「compassion=共苦」は、〈顔〉のある関係からなる真正な社会という水準において可能となるものです。それに対して、「compassionを無視する制度=隠蔽策」は、市場システムなどのシステムを媒介した非真正性の水準のものとなるでしょう。
 ところで、macbethさんは、この「compassionを基盤とした社会的連帯=緩和策」と「compassionを無視する制度=隠蔽策」との区別が、アダム・スミスは、『道徳感情論』においてcompassionを重視していたのに、自由主義経済は、compassionを無視することで成立したという事態を言い表していないかという、とても重要な指摘をしています。その言葉で、経済思想史で「アダム・スミス問題」と呼ばれている問題を久々に思い出しました。それは、社会の原理的基盤をpityやcompassionといった共感(sympathy)に置く『道徳感情論』の見解と、社会の基盤を利己心や自愛心だとする『国富論』の見解とは矛盾して見えるが、はたしてそれは矛盾なのかという問題です。私は『道徳感情論』と『国富論』をちゃんと読んでいないので、この「アダム・スミス問題」について何も言えないのですが、たいていは、この矛盾(にみえるもの)を矛盾していないという方向で解決しているようです。しかし、ここで指摘しておきたいのは、『道徳感情論』において扱われている「共感(sympathy)」は、想像力によって自分を相手の境遇におくこと、つまり境遇の交換可能性によるものですが*2、それが働くのは真正な社会のレベルにおいてだということです。スミスは「シナという大帝国がその無数の住民とともに、とつぜん地震によってのみこまれたとしよう」という仮想の例を出して、その大災害の報道を受け取ったヨーロッパの人類愛のある人で、かの地につながりのある人をもたない人の反応は、「なによりもまず、あの不幸な国民の悲運にたいするかれの悲哀をひじょうにつよく表明するだろう」と予想すると同時に、思索深い人なら、この災難がヨーロッパおよび世界全体の経済に対してもたらす諸効果について推論するかもしれない、そして、そのみごとな推論が終わり、人道的な感情がうまく表現されたならば、そういう出来事がなにも起こらなかったかのように、「いつもとかわらぬ気楽さと平静さをもって、自分の仕事や快楽を追求するであろう」と言っています。これは、〈顔〉のある関係をもつ人がいない場合には、境遇の交換可能性はないということを意味しています*3
つまり、アダム・スミス問題において対立しているようにみえているのは、pityやcompassionといった共感(sympathy)を基盤とし、根源的な交換可能性(偶然性)の現れる「真正な社会」と、市場システムによる利己心の調整を基盤とする「非真正な社会」との対比といえるでしょう。
そのことは、逆にいえば、スミスのいう「中立的な観察者」*4を、市場システムの「見えざる手」につなげて、「アダム・スミス問題」を解決することは、そのふたつの社会の水準の違いを無視してはじめて可能となります。「中立的な観察者」は非真正な社会におけるシステムの目であり、それは根源的な交換可能性(偶然性)による共感(sympathy)を基盤とする真正な社会とは連続しないのです。
 ついでに言っておけば、『自由を考える』(NHKブックス、2003年)の中で、東浩紀さんと大澤真幸さんも、社会的連帯の基盤として、「交換可能性」ないしは「根源的偶有性」を挙げています。けれども、そこでも、「根源的な交換可能性」が「個の代替不可能性」と結びついていること、および「根源的な交換可能性」が真正な社会の水準で現れるということを無視しているために、その交換可能性や偶有性の想像力のためには「匿名になれる」という可能性が必要だという議論になっていっています。この「匿名性」は、どこかスミスのいう「中立的な観察者」に似ていますが、それも、ともに「真正性の水準」を無視しているからでしょう。
 また、最初のコメントから話が逸れて長くなってしまいました。それに、まだ『道徳感情論』をちゃんと読んでいないので、それについての議論のところはあまり信用しないでください。

*1:もっとも、この言い方は思弁的・分析的にすぎるかもしれません。実際のcompassion=共苦は、端的に〈顔〉のある関係における間身体的な共鳴として現れるものです。

*2:スミスは、「われわれはいわばかれの身体にはいりこみ、かれの身柄になって」という言い方をしています。

*3:言い換えれば、どんなに遠い地であっても、ひとりでも〈顔〉のある関係(の連鎖)の者があれば、根源的な交換可能性が現れるということでもあります。

*4:スミスは、「立場や境遇の交換可能性」が現れない、特別なつながりのない人に対する共感(sympathy)は、人道的な人類愛といったものではけっして生まれないとしています。そして、それを生むには、われわれ自身の場所からでもなく、かといってその相手の場所からでもなく(その立場・境遇の交換が生まれないのだから)、第三の中立的な場所から、自分と相手のことを眺めなければならないとスミスは言っています。それが「中立的な観察者」ということです。