黄色い犬さんとmacbethさんのやり取りで考えたこと

 結局、私の思考は、人の言ったことを勝手につなげて働くようで、だから、コメントへのコメントとか本の読書ノートみたいなことを書くことになるようです。そこで、きょうも、黄色い犬さんとのやり取りとmacbethさんのコメントで考えたことを書きたいと思います。黄色い犬さんは、

なるほど。考えすぎでしたか。交換論が出てきたので思ったのですが、忠誠に再分配、義理に贈与があたるとすれば、選択的コミットメントは市場交換ということになりますかね?

と書いていますが、おっしゃる通り、〈選択的コミットメント〉は市場交換に対応した関係のあり方といえるでしょう。身分や役割による位階的関係から離れた対等な関係やその場限りで自己充足する参入離脱の自由な関係といった特徴は、市場交換によるつながりの特徴です。また、「楽しさ」という感情だけを目的として、それを壊してしまう感情の表出をいる点も、ネオ・リベラリズム期のポストフォーディズムの労働を特徴付ける「感情労働」に似ています。ポストモダン的な〈選択的コミットメント〉が、ネオ・リベラリズムの労働の流動化・柔軟化に適応するためのスキルにすぎないのではといわれるゆえんです。
ただし、〈選択的コミットメント〉と市場交換による関係が完全にイコールというわけではありません。というのは、〈選択的コミットメント〉においては、それでも〈顔〉のある関係にコミットメントしようとしているからです。市場交換の関係でいいというのであれば、〈顔〉のある関係とか仲間とのつながりなんていらないわけですから。つまり、〈選択的コミットメント〉は、ネオ・リベラリズム社会に完全に適応しようとしているのではなくて、それに適応しながら、やはりそれをずらしているというか、流用しているという側面があるといえるでしょう。
 ついでに触れておけば、私は、交換を、①分配、②贈与交換、③再分配、④市場交換の4つのタイプに分けています。これらは2つの座標軸からなる「交換の4角形」を構成しています。2つの軸とは、そこで生じる関係の違いによるもので、1つは、機能分化した役割同士の隣接性による「有機的連帯」(③再分配と④市場交換)と類似性による「機械的連帯」(①分配と②贈与交換)の対立、もうひとつは、関係を持続させる「負い目の刻印」の有無(「負い目」があるのが②贈与交換と③再分配、「負い目」が無いのが①分配と④市場交換)の対立です。ドゥルーズ=ガタリ流のノマドジーや「新たなコミュナリズム」にふさわしいのは、機械的連帯でありかつ負い目の刻印のない「分配」の関係なのですが、1980年代のポストモダン思想は、それを「市場交換」のシステムである資本主義の流動性や「しがらみ」(「負い目の刻印」)を断ち切る力に求めてしまいました。その結果、ポストモダン思想はネオ・リベラリズム期の支配的イデオロギーに取り込まれてしまったというわけです。
 さて、私の「交換の4角形」のポイントは、従来、「純粋贈与」として贈与に入れられたり、再分配と同じ「一般的互酬性」に入れられたりしてきた「分配」を明確に区別する点にありました。ここで何が言いたいかというと、新資本主義の「柔軟性」に対抗する新たな関係は、〈顔〉のある関係による「分配」の関係を再構築したものといえるのではないか、そして、〈選択的コミットメント〉はその可能性を秘めているのではないかということです。もちろん、実際の〈選択的コミットメント〉は、「キャラ的人間関係」によって、〈顔〉のある関係、そこで露呈する「個の代替不可能性」を回避するものとなっています。その点は、前にmacbethさんがくれたコメントとつながっていきます。

 macbethさんは、3月15日の記事へのコメントで、

私自身も「『個の代替不可能性』を基盤とした社会的連帯」というのは制度化できない=小さな島にしかならないのではないかと考えていました。
私がそのように考えた理由は「個の代替不可能性」とは、人が好むと好まざるとに拘わらず背負っている(苛烈な)「人間の条件」のようなもので、古今東西のあらゆる社会制度(文化といってもいいかも)は如何にして「個の代替不可能性」に向き合わずに済ませるかを主眼目的とした人智の総体ではなかったかと思えたからでした。おそらくこの文化による回避策は時代とともに複雑さと巧妙さを増しているのでしょう(それを成功とみるか厄介な事態とみるかは別の問題ですが)。

と書いています。たしかに、「個の代替不可能性」の露呈はわずらわしいものです。それに、社会秩序は、役割関係によってできていますが、「個の代替不可能性」はその秩序を無にしてしまいます。前にも書きましたが、役割とは「代替可能性」を基礎にしているからです。そこで、macbethさんが書いておられるように、あらゆる社会制度は、露呈した「個の代替不可能性」をなんとか役割関係に埋め込むさまざまな装置をもっています。
 けれども同時に、「個の代替不可能性」は、個人の生存や自尊に欠かせないものであるとともに、社会を社会たらしめる社会的連帯の基盤でもあります。そのため、これまでのあらゆる文化は、「個の代替不可能性」の露呈を回避するとともに、それを保持する仕掛けもまたもっていました。しかし、近代以降の社会システムは、「個の代替不可能性」は回避されるだけになっています。その維持は、「島としての真正な社会」にゆだねられてきたのですが、ネオ・リベラリズム期になると、社会システムがすべて市場システムをモデルとするようになったため、それまでの「島」も維持が難しくなってきています。自分で自分の人生や生活の場を「選ぶ」ということが市場での「自己選択」へと変わってきたからです。
 あたりまえのことですが(そして忘れられていることでもありますが)、市場での「自己選択」は、自律や自立を意味しません。むしろ、市場システムへの全面的な依存を意味します。そして、現代社会では、市場システムに従属しているかぎりにおいて(もちろん、お金をもっているかぎりにおいてということを含みますが)、周りとの〈顔〉のある関係に煩わされることなく生存できる条件が整いつつあるということです。つまり、〈顔〉のある関係の回避策が複雑さと巧妙さを増しているというより、生活のあらゆる面が、市場社会システムに依存することですむようになったというだけのことと言ったほうがいいでしょう。
 ただし、その全面的依存は、リスクの増大という欠点があるだけではなく*1、人と人との連帯、つまり「社会」というものを破壊してしまいます*2。そこで、市場社会システムに適応しつつ、それに全面的依存とならない方法として、〈選択的コミットメント〉というやり方が編み出されたと考えたほうがいいでしょう。たしかにあまり良い方策とはいえないのですが、その中から、そこでの〈顔〉のある関係において、「個の代替不可能性」を埋め込みながら保持していくというやり方が生まれる可能性だってあるでしょう。社会システムが、官僚制のような位階的秩序が中心だった「固体的な近代」(モダン、生産社会、フォーディズム、規律社会)においても、「会社人間」という「個の代替不可能性」を回避して、そのシステムに過剰適応したかのようにみえる人たちが、他方では、職場で〈顔〉のある関係や真正性の島を作ってきたように、です。
そういうことを明らかにする唯一の方法が人類学的フィールドワークということなのですが、それは専門の文化人類学者でなくても、自分たちの生活の場でできるものです。自分や周りの人たちが実際にはなにをしているのかを、一歩横に出て見れば良いのですから。

*1:その不安がセキュリティの上昇へと転化され、監視社会や排除型社会を生んでいきます。

*2:「社会というものはない。個人と家族とがあるだけだ」というサッチャーの言葉を思い出してもいいでしょう。