「選ぶこと」と「自己選択」のあいだ

 黄色い犬さん、macbethさん、コメントありがとう。黄色い犬さんは、

ところで、<選択的コミットメント>と「拡散」(忠誠の)との違いがまだよくわかりません。<選択的コミットメント>っていうのは関係を断片化して、そのつど都合の良い断片を選択することですよね?これをレヴィ=ストロースのいう「エンジニアの思考」に、「拡散」のほうを「ブリコルールの思考」に比してもいいですか?あるいは「拡散」は選べないものだと言ってもいいんでしょうか?

と書いていますが、私の言ったことはもっと単純で、〈選択的コミットメント〉という用語は、「忠誠」(これは交換論でいえば再分配の関係に当たります)とか「義理」(これは贈与交換によって生じます)とかというときの「拘束」がない関係を指しているから異なっているということでした。つまり、いわば「しがらみ」を拡散しているわけで、「しがらみ」とはならない関係をつくるための〈選択的コミットメント〉での拡散とは違うということです。
この「忠誠の拡散」が選べないものなのかというのは、「選ぶ」ということをどう捉えるかによります。アフリカでも中世でも主従関係は「選べる」のですが、それは自律的・主体的な「自己選択」というのとは違います。どんな社会でも自分の道を自分で切り開くということはあるわけですが、周りの環境や関係=しがらみから自由に自律的・主体的に選択しているというわけではないでしょう。自分で選ぶというときの「自分」が環境や関係から切り離された「個」とはなっていないからです。「自律的・主体的な個になれ」というのが近代のイデオロギーですが、実際には近代社会でも周りのことを考えずに「自己選択」している者は嫌われるだけでしょう。
〈選択的コミットメント〉という用語は、社会学者の浅野智彦さんから借りたものです。浅野さんは、若者たちにみられる新しい親密さの関係を〈選択的コミットメント〉と呼び、それを、従来の親密さの関係としての〈包括的コミットメント〉と対比しています。〈包括的コミットメント〉とは、「主として家族、夫婦、恋人など生活の広範な文脈を共有する、その意味で包括的な関係の場」で取り結ばれる親密な関係であり、「このような関係から離脱することは非常に困難であった」と述べています。それに対して、〈選択的コミットメント〉は、「人間関係があくまでも限定された文脈の中でのみ取り結ばれ」、「そのような関係が参入離脱の自由なものとしていくつも並び立っていることを前提として」、「ひとつの関係が気に入らなければ、いつでもそこを出ていってもうひとつの別の関係に入れるという選択可能性が保障されている」という特徴をもつとされています*1
もちろん、この〈包括的コミットメント〉から〈選択的コミットメント〉へという進化図式じたいが疑わしいものです。たとえば、浅野さんは、「いまや[〈包括的コミットメント〉の]包括性は(離婚の増大に象徴されるように)少しずつ解体しつつあると言ってよいだろう」といっていますが、明治期のほうがいまより離婚率は高かったわけですから、〈包括的コミットメント〉の包括性が健在で離脱が困難だったというのはいったいいつの話なのかということになります。また、昔の家には奉公人など非血縁者が一緒にいたわけで、その非血縁者との関係も〈包括的コミットメント〉だったのかとか、現在の家族は本当に「参入離脱の自由なもの」と言えるのかとか、突っ込みどころはたくさんあります(要するに〈包括的コミットメント〉とは、近代家族のイデオロギーを反映したものにすぎないといえるでしょう)。
けれども、ひとまず、現在の若者たちの仲間集団での関係が〈選択的コミットメント〉といえるような特徴をもっていることを認めた上で、それは、忠誠とか義理とかの関係の拡散とはまったく異なるものだというのが私の主旨です。つまり、それは、自己とか主体というものをどういうものとして捉えるかの違いです。往々にして、「しがらみ」という関係は、離脱も選択できないものだとされますが、そうではなく、「しがらみ」も選ぶものなのです。たとえば、結婚ってしがらみを選ぶということでしょう。それは「選択」ですが、結婚を自律的に「自己選択」するなんてことはできないでしょう。結婚相手を「自己選択」するという言い方はまだ可能ですが(親に決められた「相手」でなく、というときに)、それでも、「俺は結婚相手を自律的・主体的に自己選択したぞ/するぞ」と言ったら、それこそ相手は「相手にしない」でしょう。「選ぶこと」と「自己選択」のあいだには、関係とか主体とか自己をどういうものとして捉えるかについての大きな違いがあるのです。

*1:富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣、1999年、49-51頁