morutanさん、ローランさん、コメントありがとう

 morutanさん、ようこそ。情報をありがとうございます。ちょうどきのう、島薗さんのその本をアマゾンで注文したところでした。そういう情報は助かります。
 ローランさん、コメントありがとう。島薗さんも前に論文で書いていたことですが、1980年代から、スピリチュアリズムが共同体的なつながりを求めるものから、個人的なスピリチュアリティの形成を志向するものになってきたことと関係があるのでしょうね。現実の「個人化」を無効にするもうひとつの「個人化」ということでしょうか。
 スピリチュアルな「個人化」という議論に対する考えられる反論は、つながりを求める「癒し」やセルフヘルプ・グループのようなグループが増加しているではないか、やはり共同体的なつながりを求めているのではないかというものでしょう。ただ、その反論に対しては、パットナムが「ひとりでボウリングをする」という論文の中で、そのようなアソシエーションは「2次集団」というより、「3次集団」という新しい術語で呼ぶべきもので、レッドソックスのファン同士の関係に近いと言っていることを援用すればクリアできるかもしれません。
 ところで、ローランさんは、

現世利益を第一の基準にすると、勝ち組負け組みが、所得という数値で一目瞭然ですが、たましいの成長が試されるのは死んだ後のようです。そこには「自分の行いが死んだ後に先延ばしされる」というシステムがあるように思います。それは「自己選択の解答の不在」ともいえるもので、自己選択を迫られるぼくらには都合の良いもののように思われます。

と書いていますが、この議論を使えば、「ほんものの自分探し」というのも「自己選択の解答の不在」といえるかもしれませんね。現実の「負け組」である自分は「ほんものの自分」とは違うとすることは、自己選択=自己責任から逃れる方法ということになるのでしょうから。
 それらは、「個人化」のイデオロギーを否定することなく(「自己選択」は大切としつつ)、その結果責任のをなんとか無化するやり方になっています。自己選択の及ばない「しがらみ」こそ、霊性の源泉だと思うのですが、その辺りは、「自己」についての言説の変化とともに、スピリチュアリティの言説の変化を追う必要があるでしょう。
 自己選択で思い出したのが急に大学などで使われ出した「キャリア・デザイン」という言葉です。コマロフ夫妻も、千年紀資本主義の特徴として、雇用の流動化によって、資本や経営と労働が長期的に一つの地域で向き合うことがなくなった結果、労働力が生身の人間であることの認識が薄れ、労働者同士の連帯も希薄化したと指摘していましたが、そこから「キャリア・デザイン」という考え方も出てきます。自分で自分のキャリアをデザインするというわけです。それは、自分のキャリアを自己決定できていいってことに聞こえますが、実際にはできないからそんな考え方が出てくるのでしょう。そのとき、重視されるのが、カウンセリングで自分の適正と能力(要するに「個性」)を知ること、そして、ころころ変わる職場にあわせて自分をリセットするやり方です。この二つは矛盾しているようですが、それを統合的に両立させるのが「心理学主義」です。
 社会の「心理学主義化」と「個人化」と「スピリチュアル・ブーム」は関連しているというのがいまのところの見通しなのですが、社会が不安定になるといんちきなスピリチュアリズムが流行るといった陳腐な評論を超えられるかどうか、「スピリチュアリティの言説の変化を追う必要がある」と書きましたが、そういう面倒なことはやらないという主義なので、見通しだけで終わる公算が大です。だれかやってくれないかな(宗教社会学スピリチュアリティ研究でもうやっていると思うけど、こんなのありますってだれか教えてくれないかな)。