品格と共通善

 黄色い犬さん、コメントありがとう。黄色い犬さんは、

 市場原理によらずに「役に立つ」ことを語るときに、いきなり「品格」とか(笑)。そうじゃない「生活の中で実際に行っているもの」がおもしろいんですが。そのうち「しがらみ」についてもっと書いてくれませんか?

と書いてくれましたが、「品格」もそうですが(『国家の品格』は読んでいませんが)、コミュニタリアンがアトミックな個人主義や市場原理を批判するときに、人々が共有すべき「共通善」を持ち出すのも、私はちょっと違和感を感じますね。
 もちろん、「きみと一緒にいること」、すなわち「きみと一緒に何かをすること」が、一人で同じ何かをするのとまったく違ったことであり、何か以上の価値であることを表わすのに「共通善」という言葉を使うのであれば、違和感はありません(東アフリカではよく「一人で食べるのは妖術使いだ」といいます)。しかし、平等とか友愛とか連帯という「共通善」を成員全体の共通した本性であると言われると、「きみと一緒にいること」が生みだす「何か」とはちょっと違う気がします。しかも、共通善を「共有」する範囲が、直接民主主義が可能な小さなポリスから、近代国家まで、あるいはグローバルな「共通善」とか人類全体の「共通善」にまで拡張される使い方は、それこそ「真正性の水準」を無視しています。
 それに、「きみと一緒」なのは旅先の一時的な状態でもありうるし、そこで生まれる「何か」は、必ずしも誰もが認める「善」とは限らなくてもいいということが、「共通善」という言い方では掬いとれない気がします。まあ、「品格」よりはずっといいのでしょうけれども。品格というと、比較可能で、市場価値を高めるものって感じですから。