黄色い犬さんのコメントへのコメント

 黄色い犬さん、いつもコメントありがとう。2月22日の記事の最後のコメントに、内田樹さんの『下流志向』(講談社)の話を書いてくれましたが、そういえば、このプログは「ときどき読書ノート」とタイトルに入っているのに、ちゃんとした読書ノートって、まだ『エルヴィスが社会を動かした』一つしかしていませんね。最近は最初から最後まで読み通した本があんまりなく、『下流志向』も内田樹ファンなので買いましたが、買ったときにまえがきを読んであとはぱらぱらめくっただけで積んであります。黄色い犬さんの知人の「詐欺師っぽい」という評はいいですね。詐欺師っぽい芸(70〜80年代ならトリックスターというところでしょうか)が内田さんのエッセイの持ち味ですからね。ところで、

その47-50頁に、授業での私語は市場交換における「値切り」と一緒だ、というようなことが書いてありました。50分の授業が「聞くに値しない」と判断したとき、「不快」というマイナスの貨幣を教師に払うのだ、と。かつて教わる側だった身としては、そればかりではないんだけどなと思うんですが、「市場交換に馴らされた今の子どもたちはそうなんだ」といわれるとそうなのかなという気がしないでもないですが、たぶんそうでない子もいるだろう。たしかに「この授業はなんの役に立つのか」という進歩信仰は、強いかもしれませんが。

ということについてですが、内田さんの主旨は「学びは市場原理によっては基礎づけることができない」のに、教育を受ける前から市場原理に馴らされたいまの子どもたちは「消費者マインドで学校教育に対峙している」ということですが、学びだけではなく、「社会というものは市場原理によっては基礎づけることができない」ということだと思いますが(「が」で繋げてみました)。もっとも、子どもの頃から市場原理に馴らされているから、消費者マインドで対峙するようなことになっているというわけではないんじゃないのかな。前に、家族や仲間とのつきあいも、いまの若者たちは「キャラ的人間関係」を作っているという社会学者の分析について書きました。その「キャラ的人間関係」ないしは〈選択コミットメント〉は、たしかにネオ・リベラリズムに親和的ですが、「何の役に立つのか」、「自分にとってどういう利益があるのか」という消費者マインドで、仲間や友だちと付き合っているわけではないでしょう。
いまの子どもたちが「消費者マインドで学校教育に対峙している」のは、学校が彼らを消費者として扱っているからです。大学の教授会でも、「消費者としての学生のニーズに応えるために」とか「消費者である学生へのサービスとして」などという発言が普通になされています。それは、社会が学校や大学に対して「何の役に立つのか」を明確にせよと要求してくるからでもありますが、そのように子どもたちを消費者扱いすれば、消費者として振舞うのは当然だということになります。社会に対する貢献とか社会とのつながりとかについて、市場原理でしか語れなくなっているのは大人たちであって、若者や子どもたちが突然変貌しているわけではありません。まあ、できることといえば、「社会というものは市場原理によっては基礎づけることができない」といい続けるしかないのでしょうね。