「悪しきしがらみ」と「負ける」ということについて

黄色い犬さんのコメントを読んで、いまや子供向けのそんな本があるのかと思いました。その本に対するツッコミどころはいくらでもありますが(読んでもいないのにツッコミを入れるのもどうかと思うけど)、性的犯罪や凶悪犯罪が増えているわけでもないのに、特に子どもの安全ということになると最優先される社会では、ツッコミを入れたところで、そんなこと言って自分の子どもが襲われたらどうするんだということになるのでしょうね。そのようなセキュリティの価値の上昇がネオ・リベラリズム期のナショナリズムを支えているという話は、「小田亮の研究ホームページ」の「講義 ネオ・リベラリズム期のナショナリズムとセキュリティ」*1の中でもでもしています。良かったら読んでみてください。
でも、一つだけ言えば、「他者をまもる」って話は、その本からはどういう意味づけになるのでしょうね。親もまた、自分の娘を性暴力からまもろうと思っていますよね。あるいは妻や恋人をまもりたいということでもいいのですが、それも本当にまもろうと思うのだったら、その他者を「自分のもの」と思わなくてはならないということなんですかね。それとも、その本の教えは、他人が自分をまもってくれるなんて思うな、自分の身は自分でまもるしかないんだってことなんでしょうか。それで、親の性暴力からもまもれるっていうことになるのかな。
 私有ということで言えば、「自分のからだは自分のもの」という考え方を一概に否定しようとは思いません(性の自己決定権や出産の自己決定権も否定はしません)。ただ、私有ということが「最後の砦」だというように考えることは、かえって自己のからだを否定する外部の力に対して弱くなってしまうという気がします。「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」と、可能としての砦をたくさん持っていたほうがいいわけですから。たとえ、砦同士が矛盾していても気にする必要もないでしょう。
そして、もう一つ大事なことは「私有」ということの意味内容です。私が私有を否定しないのは、それが他者の使用を排他的に退ける権利となってはならないという前提つきです。それじゃ私有じゃないじゃないかといわれそうですが、文化人類学の知的蓄積は、「私のもの」だという権利としての私有という観念は人類史の最初からあったこと、そして、排他的処理権という意味以外の私有がいくらでもあったということを教えてくれます。
たとえば、コモンズ(共有地)というと、共有であって私有ではないと考えがちですが、現実にある「コモンズ的なもの」は、共有か私有かという二者択一をすり抜けてしまうものが多いのです。誰かが私的所有している土地の資源に対しても、そこに生きている人びとが消費してよいというものもよくありますし、自分の土地や自分の牛なのに、他者もその土地や牛に対してなんらかの権利を持っていて、自由に処分できないということもよくあります。リベラリズムからすれば、「悪しきしがらみ」であり、非合理的な「既得権益」だから、そのような規制はなくせということになりますが。
もちろん、誰でもがそのような権利をもっているというわけではありません。そのような権利をもっていない者がそれを奪おうとしたら、もちろん体を張ってでもまもらなければならないということになりますが、それは「自分のもの」であり、かつ「他の人のもの」でもあるから、自分のためだけではなく、他の人のためにもまもらなくてはならないわけです。
だからなんなんだって言われそうですが、そのような「悪しきしがらみ」においてこそ、「自己のかけがえのなさ」が生まれるのであって、「自分のもの」だからかけがえのないものではないのだろうと思うということです。しかも、万一まもれなかったという不幸な事態が起こっても、その「かけがえのなさ」はいささかもなくなりません。「自分のもの」だからまもるというのであれば、万一のことが起こると「自分のもの」ではなくなり、もうまもる価値もなくなってしまうのではないでしょうか。それは、負けてしまうと価値がないという考え方につながっているような気がします。