正月に化粧について考える(2)

 「うー」さんと「黄色い犬」さんからコメントをもらったので、続きを書かなきゃと張り切ってはみたものの、「答えは次回に」ってもったいぶった割には、ちゃんとした答えではないので、かえって書きにくくなってしまった。でも、気を取り直して続きを。

 さて、女性が化粧をしたり、スカートやハイヒールを履いたり、ダイエットしたり、補正下着をつけたり、美容整形をしたりするのは、「女性は自己実現のためにキレイを目指さなければならない」という「キレイ・イデオロギー」によるのだとしたら、そして、そのイデオロギーが、ジェンダー規範を強化し、女性を抑圧しているのだとしたら、そのことを暴いたラディカル・フェミニストの言説は、その後のフェミニストたちを含めた女性たちになぜ受け容れられなかったのだろうか。
 そのことは、大きく言えば、ラディカル・フェミニズムの「個人的なことこそが政治的である」というテーゼが結局は受け容れられなかったということを意味する。だから、なぜ「キレイ・イデオロギー」批判が受け容れられなかったのかという問いへの答えとしては、この「私的なものこそ政治的だ」というテーゼがなぜ受容されなかったのかという問いに答えるという形でも答えられるだろうけれど、いきなり話が大げさになるので、まずは、「キレイ・イデオロギー」の呪縛への批判がどうして受容されなかったのかということから考えてみよう。
最初に、日常生活において「あたえりまえ」になっていることの欺瞞性ないし虚偽意識を暴くという、批判理論(ラディカル・フェミニズムもそこに含まれる)からのアプローチを試みてみたい。別にフェミニストではなくても、現在の女性たちは、女だけが化粧をすることがどこかで男性中心的なジェンダー秩序と関係しているんだと感じているだろう。フェミニストであればなおさらで、化粧することにどこか後ろめたさを覚えているのではないか。しかし、70年代前半ならいざしらず(その頃は、化粧しないでスカートもけっして履かず、ブラジャーもしない、かっこいいおねえさんたちが少なからずいて、魅力的に見えたものだった)、現在の日常生活のなかで化粧をしないで街に出ることは、化粧をすることの面倒くささ以上の精神的な面倒くささやしんどさがともなうだろう(これが「キレイ・イデオロギー」の効果というわけだ)。
日常生活でのそういった「面倒くささ」を回避するために化粧をすると、こんどは化粧をすることの拘束感ないしは「後ろめたさ」を抱え込んでしまうことになる。では、そっちを回避するにはどうしたらよいか。ひとつの手は、ラディカル・フェミニズムの「個人的なことこそが政治的である」というテーゼを否定して、公私の区分に基づくリベラリズムに戻るというものだ。それによれば、私的領域の問題は個人的に解決するしかないことであり、そもそも化粧の問題を性差別として社会問題化することが間違っていることになる。しかし、このすっきりした解決法は、女性たちのもつ違和感や居心地の悪さを個々人に押し付けて終わるものであり、自己決定と自己責任がセットになったネオ・リベラリズムに繋がる解決法だろう。
もうひとつの手は、化粧の意味を「自分の快楽のためのもの」と組み替える方法である。いまどき「女は男の目を意識して化粧しているはずだ」と考えるオヤジたちがどれくらい残っているのかは分からないが(まあ、すくなくとも「オレのために化粧しているのではない」ということには、私も含めて世のオヤジたちは気づいている)、化粧について書いている女性たちの多くが「女の化粧は男のためではない!」と繰り返しているところを見ると、どうやら、女性たちは、世の多くの男たちが「女の化粧は男のためだ」と考えていると考えているらしい。だから、女性たちは、「自分の楽しみのために化粧しているのであって、男のためではない」と考えることによって(いやみな言い方をすれば、そう自分に言い聞かせることによって)、化粧することやめなくても、自分は男性中心的な支配イデオロギーから逃れていると思うことができる。女性たちが「男たちは、女が男のために化粧すると思い込んでいる」と思いたがっているのは(実際にはそう思っていない男のほうが多いだろう)、自分が男性中心的なイデオロギーに束縛されていないと思うために、そのような前提が必要だからなのではないか。
 このような批判理論による答えは、実際には男性中心的なイデオロギーに束縛されているのに、それを意識の上でごまかしているだけだ、あるいは束縛されていることに気づいていないだけだというものになっている。しかし、批判理論の無力さは、実際にラディカル・フェミニズムによる「キレイ・イデオロギー」批判がそのまま受け容れられていないことが証明してしまっている。ひとはそのようなイデオロギーに縛られているということを意識したところで、そこから逃れられるわけではないのである。
 女性たちが「キレイ・イデオロギー」批判を受け容れなかったのは、たしかにその「キレイ・イデオロギー」に含まれる「自己実現のために」という呪文のせいだろう。女性の自己実現や自己決定は「解放」のことばだった(もうすでにネオ・リベラリズムにからめ取られているが)。その意味では、そのような解放のことばが支配的なイデオロギーに横領されたがゆえに、ラディカル・フェミニズムの言説が無力化されたということはできよう。
 では、女性たちがラディカル・フェミニズムの批判を拒否しているのはイデオロギーの呼びかける「自己実現のために」という呪文に操られているからだということにはなるのだろうか。女性たちが「キレイ・イデオロギー」による呼びかけに絶えずさらされ、その影響下にあることはたしかだろう。そして、外出するときには化粧をし、化粧品をいろいろ試したりダイエットをしたり補正下着をつけたりするという日常的な行為は「キレイ・イデオロギー」にしたがっているようにみえる。しかし、そのような日常的行為は、その日常性ゆえに、「自己実現のために」という呪文からいやおうなく、ずれていく。たしかにそれは「自分のため」にするのだろうが、日常性ではその「自分」がゆるやかで状況や周囲の他人たちに溶け込んでしまい、「自己実現のために」なんていう「自己」ではなくなっているだろう。そのぐずぐずの状態を肯定してしまうこと、そのようないい加減な態度にこそ、「キレイ・イデオロギー」を崩していく(そこから逃れたり解放されたりするのではなく)可能性があるのではないか。そちらのほうが、日常的な意識の欺瞞性を暴いてそこから自己を解放するといった批判理論の目論見よりも現実的ではないのか。
あるいは、前回のコメントでも触れた、「キレイ・イデオロギー」のパロディ化も、アーティストが非日常的な場で意図的に行なうよりも、日常的に(意図せずして)パロディ化してしまうことのほうが、イデオロギーにとって厄介なことに違いないだろう。

また、長くなってしまったし、最初に言い訳しておいたようにたいして面白くならなかった。反省。