押しつけられた区分を自分のものにすること

 まだブログの書き方というのが定まっていないので、他の人のコメントに対するコメントは、「コメント」として書くのいいのか、「日記」として書くのがいいのか分かりませんが、すこし長くなりそうなので、「日記」にしてみました。それにしても、書き始めたときは3回にわたって化粧について書くことになるとは思っていませんでした(1回で完結するつもりだったのですが)。

さて、「海ちゃんとばば」さんは、

 「化粧がオトコのため」という話を読んだり聞いたりするたび、なぜそこで「オトコ」なんだろうって思います。だって、私は正月に新年の挨拶回りにいくならそのために。好きなひととでーとするならそのために。女友達と遊びにいくならそのために化粧をするけれど、それらの場合のひとたちはフェミニストがいう「オトコ」といれかえられないでしょう? 不思議です。

と書いていますが、そのとおりで、「オトコ一般」のために化粧する女性なんておそらくほとんどいないでしょう。そして、男性もまた女性がオトコのために化粧しているなんて思っていないというのが本当でしょう。私が今回書いたのは、「なぜラディカル・フェミニズムイデオロギー批判が受け容れられなかったのか」という問いの答えというよりも、「現在のフェミニストたちが化粧について書くとき、男たちは実際にそんなこと思っていないのにもかかわらず、なぜ『女性が化粧をするのはオトコのためではない!』と強調したがるのか」という問いに対する答えでした。つまり、ラディカル・フェミニズのイデオロギー批判を経ていながら、自分たちがしている化粧という行為を肯定するためには、「男たちは女が男のために化粧すると思い込んでいる」という(事実に反する)前提が必要なのだという仮説が、その答えというわけです。
 この仮説はたぶんオリジナルなものですが、その弱点は、フェミニズムイデオロギー批判を知ってしまった女性たちは、化粧をするのに「後ろめたさ」や「拘束されている」という意識をどこかで感じているという、(調査をしていないから)根拠のないことを前提としている点です。この仮説は、「男たちは女が男のために化粧すると思い込んでいる」ということを前提にすることによってはじめて、そのような女性たちが、化粧を「自分の快楽のためにしている行為なんだ」と意味づけることが、化粧をしながら化粧を、男性中心的イデオロギーへの抵抗と意味づけることが可能となり、化粧をすることの「後ろめたさ」から逃れることができるのだ、というものですから、いまどき化粧をすることに「後ろめたさ」や「束縛感」を覚えるフェミニストなんていないということであれば、あっさり崩れます。
 また、3人の方のコメントを読みながら思ったことは、個々人の私的な実践としての化粧という行為が、私的領域と公的領域との区分線を引き直す行為だということです。それは、単純に私的領域では化粧をせずに公的領域に向かうときに化粧をすることで区分している、ということではありません。先のコメントでは、その区分を侵犯すると書きましたが、その区分の線をたえず自分の都合に合わせていくという行為だと言ったほうがいいかもしれません。固定的な私的領域と公的領域の区分を押し付けられる女性たちは*1、化粧という日常的な行為を通して(意識しないで)、それを自分たちのものにしていっているのだというわけです。

*1:この私的領域と公的領域の区分を押し付けられるのはたいてい、周縁化されたマイノリティたちであり、その区分をしていないと非難されるのも周縁者たちです。