正月に化粧について考える(1)

この時期になると、女性の化粧について考えさせられることがある。年末年始に女性の化粧が目立つから、というわけではなく、化粧をテーマに卒業論文を書く学生がだいたい2年に1人はいるから。
 ということで、今年もまた女性の化粧について考える機会をもらった。女性の化粧について卒論を書く学生(たいてい女子学生だが)は、「どうして女性だけが化粧をするのか」という「問い」を設定したがる。女性だけが化粧をするようになったのは歴史的なことであり、男性が化粧をする文化は少なくなかったことを知ると、その「問い」は、「近代になってどうして女性だけが化粧をするようになったのか」というように変わる。こういった「問い」には、結局は1970〜80年代にフェミニズムが提示したような、「美の鎖」とか「美しさのイデオロギー」によって男性が女性を支配しているからという「答え」しか出てこない(たまに「女性のほうがきれいだから」といったとんちんかんな答えを出す学生もいるけれど)。
 答えが決まりきっている「問い」に答えるなんて書くほうもつまらない。そういう問いを設定するより、たとえば、「1970〜80年代のフェミニズムが提示した『答え』がなぜ女性たちに受け容れられなかったのか」といった問いのほうが面白いだろう。その問いを考えるうえで良いとっかかりとなる本が去年出された。鈴木由加里『女は見た目が10割:誰のために化粧をするのか』(平凡社新書、2006年 isbn:4582853331)である。この本の中で、鈴木さんは、女たちが「男たちのために化粧をする」ということを否定し(それはよく分かるけれど)、「自分の楽しみのために化粧をする」のだという。
 そして、フェミニストの「答え」の代表的なものであるナオミ・ウルフの『美の陰謀』(原題は『美の神話』、TBSブリタニカ、1994年)に触れつつ、「女性が美しさを目指すのは、社会が美によって女性を縛ろうとしているからではないか、という議論がなされたことがあった」が、「今時の『フェミニスト』たちには、美しさを目指すことを頭から否定する人はいないだろう」[44頁]と述べ、次のようにいう。

ミニ・スカートをはこうが、赤い口紅をつけようが、それは自己実現の一環であり、「美しさ」を求めることは自分らしくあるための努力、自己イメージの演出であり、男性社会の差別の構造とは関係ない、たとえそれが特定の誰かの気を惹くためであろうとも究極的には自分のためのものなのだ、という意識は、おそらく多くの女性たちに引き受けられているものだと思う。「女らしさ」と「美しさ」は同等の概念ではなく、別種のものなのだ。女性が「美しさ」を求めることは正しいことなのである。[44-45頁]

しかし同時に、鈴木さんは、現代社会には、「女性が美しさ=キレイを目指さなければならない」という「キレイ・イデオロギー」があり、女性たちはそのイデオロギーに巻き込まれているともいう。とすれば、上のような、「女性が『美しさ』を求めることは正しいこと」なのだという意識を女性たちがもたされているのは、この「キレイ・イデオロギー」に女性たちが縛られているからだということになるだろう。
この本の議論の不思議なところは、女性たちが「キレイ・イデオロギー」(これは、フェミニストたちが「美の神話」や「美のイデオロギー」と言っていたものと同じだ)に縛られていると言いながら、このイデオロギーが、性差別とは関係がないと主張したがっている点にある。「あとがき」で、鈴木さんは、「現在の女性たちは、男が都合よく女を支配するために押しつけられた『美しさ』の被害者というより、女性と一部の男性たちは、自分から望んで『キレイ・イデオロギー』に殉じているようにもみえる」[208頁]と述べている。
どうやら、鈴木さんが性差別とは関係がないと言いたがっているのは、女性たちを「受動的で無力な被害者」とか「イデオロギーに縛られた無知な犠牲者」として描くのではなく、能動的で主体的な行為者として描きたいからのようだ。その心情は、文化人類学における植民地あるいはポスト植民地における「ネイティヴ」の描きかたの変容と似ているから、理解できないことはない。しかし、ポストコロニアル人類学についても言えることだが、ただ単に受動的で無力な被害者なのではなく、能動的な主体なのだと言っただけでは、現にある差別の構造が見えなくなるという結果を招いて終わってしまう。
受動的で無力な被害者ではないということを示すために、「美しさ」と「女らしさ」が結びついていることや、「キレイ・イデオロギー」が性差別と大いに関係があることを否定する必要はない。性差別的なイデオロギー(支配的なイデオロギー)を女性たち(周縁化された弱者たち)自身が受け容れているようにみえながらも、そのパフォーマンスにおいてそれをずらしたり換骨奪胎したりして、イデオロギーの呼びかけ(意図)とは別のものにしてしまっているということを示すのが、ポストコロニアル人類学などの最良の成果だったはずだ。だいいち、鈴木さんはその否定にほとんど成功していない(成功する気がないかのようだ)。まず、「美しさ」と「女らしさ」とは別種のものだというのも、男性の一部が化粧をしてキレイを目指しているといった例で正当化することは無理だろう。「キレイ・イデオロギー」にハマっているのがほとんど女性だという事実は、それがジェンダー秩序を構成しているという以外に説明がつかないからである。
また、「男たちのために化粧をするのではなく、自分の楽しみのために化粧をする」ということを確認したところで、「キレイ・イデオロギー」が男性による女性の支配のためのイデオロギーだということを否定したことにならない。イデオロギーとは、従属者たちが自主的に支配に合意するための呼びかけであり、「男たちのためにキレイに化粧しろ」などと呼びかけるイデオロギーは合意を取り付けることが難しい、ほとんどイデオロギーの名に値しない下手な呼びかけであろう。「女たちよ、自分のためにキレイになれ、自己実現のために美しさを追求せよ」と呼びかけて、女性たちが自分のために自主的に主体的に化粧することが、「女は美しさによって判断されるのが当然だ」というジェンダー秩序を作り出すと同時に、女性たち同士を美しさの競争に向かわせて連帯関係を断ち切り、個々の女性たちに容姿についての慢性的な不安に陥らせるのだというのが、ナオミ・ウルフたちフェミニストが言っていた「美の鎖」や「美の陰謀」だったのではなかったのか。
ところで、鈴木さんは、「あとがき」の最後のほうで、「化粧が自己実現やら美しさのための努力という『キレイ・イデオロギー』から解放されて、単なる対社会の仮面を作る遊びのひとつになるのだったら、化粧は『美の抑圧』やジェンダー規範を強化するくびきではなく、純粋な自分の楽しみになるのかもしれない」[209頁]と書いている。あれ、自己実現や美しさのためという「キレイ・イデオロギー」によって化粧することが、「美の抑圧」やジェンダー規範を強化するくびきだって、鈴木さんは言っている。ここまで読んできてようやく、鈴木さんが化粧に「美の抑圧」とジェンダー規範の強化を見出しているフェミニストだったんだってことがわかる仕組みになっているということだ。もちろん、「純粋な自分の楽しみ」になったら、女性たちの大半は今のような化粧なんて面倒なことはしなくなるだろう。化粧のために眉毛を剃って、メイクを落とした眉のない不気味な顔を親密な関係においてだけ見せることが、対社会での遊びとなるわけはない。
最後まで読むと、なにやら著者にいっぱい食わされた気分になる本だが、「なぜフェミニストの『美の鎖』や『美の抑圧』といった言説が、女性たちに受け容れられなかったのか」という問いへの答えを出すヒントになる。では、その答えとはどんなものか、もう長くなりすぎたので、次回にまた書くことにしよう。