大塚和夫さんのこと


前回のプログ更新から4カ月半以上たちました。長らく更新しなかったのは、怠け病のせいもありますが、最も大きな理由は、今年の4月29日に大塚和夫さんが亡くなられたことにあります。前回のエントリーは訃報を聞いた直後でしたけれども予定していた原稿を載せ、その後で大塚さんのことについて何か書かなきゃと思っていました。けれども、何をどう書いていいのか思いつかないまま、しかし、大塚さんのことを書く前に、他のことをエントリーに書いて更新する気にはなりませんでした。
7月20日には、私も発起人の末席に名を連ねさせていただいた、「大塚和夫さん お別れの会」がありました。そこで、大塚さんの思い出話をしたり聞いたりして、また、教え子や院生たちが編集した冊子『ありがとう—社会人類学者大塚和夫の軌跡』を読み、大塚さんの年譜に自分の年譜を重ねて記憶をたどったりしているうちに、ますます何か書かなきゃという気持ちは強くなりましたが、書かないままもう2カ月が経ちました。
 書けない理由は、大塚さんとの思い出が物語にならないからです。個人的な思い出はたくさんあります。でも、断片的なエピソードという感じで、物語として全然つながっていないのです。まあ、思い出や記憶というものはそういうもので、亡くなってから物語にしようとするのでしょうが、まだ大塚さんが亡くなったことを受け入れていないのか、初めて会ったのがいつかも、そして最後に会ったのがいつなのかすら、正確には思い出せないのです。けれども、椎野若菜さんから東京外語大のAA研の広報誌に大塚さんのことを書いてくれと言われているので、そのウォーミングアップと、そちらには分量的に書けないことを書くという意味で、すこしだらだら書いてみることにします。
 たぶん大塚さんは、こちらの希望的観測ということもありますが、私と会って飲んだりするのは好きだったと思います。今から20年ほど前、私が大阪の河内長野市に住んでいたころ、大塚さんが河内長野市の市民講座で講演を頼まれたから、そのあと泊めてくれないかと言って、私のマンションに1泊していったことがあります。大塚さんも大阪に住んでいたわけで、いくら北と南だからといって、もちろん大塚さんもお宅に帰れるわけです。優しく気配りをする大塚さんのことですから、私が大阪に来てから間もないときに、様子を見に来てくれたのだと思いますが、一晩飲みながら語りたかったのもあったのだと思います。次の朝、私がまだ寝ているうちに、愛妻家で子煩悩の大塚さんはお宅に戻りました。朝食を付き合った私のかみさんの話では、ずっと二人の息子さんの話をしていたそうです。
 大塚さんは、1992年に大阪の国立民族学博物館から母校の東京都立大学に戻りましたが、私もその3年後の1995年(神戸淡路大震災とオウム地下鉄サリン事件の年です)に東京の成城大学に移りました。それ以降は、国立民族学博物館の上司だった伊藤幹治先生とのご縁で成城大学の非常勤に長い間来てくれたり*1、学会の理事会で一緒だったりで、定期的にお会いし、飲むという機会に恵まれていました。
 いま思うのは、長い付き合いのなかで、役割関係が固定されていたような気がします。すなわち、みんなから尊敬される先輩をからかう後輩という関係、人類学的にいえば、権威のある王とトリックスターという関係です。まわりに大塚さんを面と向かって「それじゃだめだよ」などという後輩がいなかったということもあり、どうもそれを期待されているのではないかと思って、いまから思うと、必要以上にそのような演戯をしていたという気がします。
 ただ、大塚さんも「権威のある王」という性格とは異なる振る舞いを最初からしていたわけではなく、また好んでそういう役割をしていたわけでもありません。それは、大塚さんの責任感から否応なしにせざるをえなかったことでしょう。『ありがとう—社会人類学者大塚和夫の軌跡』に収められたインタヴュー記事や『信濃毎日新聞』の「月曜評論」などを読んで、改めて感じるのは、社会(文化)人類学という学問を代表して外部に発言するんだという、大塚さんの気概です。それを自分に求められていると思っていたのでしょう。実際、大塚さん以外にそれをできる人はなかなか見当たりませんでしたから。
 大塚さんとの役割関係を、都合よくいえば、否応なしに気概をもってしていた「権威ある王=代表者」の衣装を、会ったときに私が脱がしていたといえるかもしれません。大塚さんも半分はそれを楽しんでいたと思います。
 しかし、大塚さんがいなくなったことで(まだ実感がわきませんが)、政治学や哲学や歴史学といった他分野の研究者に対して、人類学を代表して、人類学者ならこう考えると発言する人が人類学界にほとんどいなくなりました。これは、人類学界全体の問題でもありますが、私にとっても問題となります。大塚さんがいたからこそ、私のような人類学者は、人類学を代表するという責任も負わずに、(新聞などのマスメディアではなく、口頭やブログや私的コミュニケーションでという意味で)非正規的に、自分の考える人類学を気楽に述べてこられたわけですから。もちろん、私には、「人類学という学問を代表して外部に発言する」ことなどできません。そして、みんながそんなことをする必要はないと思っています。しかし、誰かがやらないとまずい。その意味で、日本の人類学者たちが大塚さんがいなくなったことを痛感するのはこれからなのでしょう。

*1:伊藤先生が退職したあとも、忙しくてもう無理だと言われるまで来て下さっていました。小田に頼まれてじゃなく、伊藤先生に頼まれたことだから行くよと言って。この辺も義理がたく依頼されたことへの責任感の強い大塚さんらしいところです。