人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(3)

 今回は、「人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(1)(2)」の続きです。そこでは長くなりすぎるので省いた話やその後の論考を読んで考えたことなどを書きたいと思います。

 

 今回のパンデミックに限らず、恐慌を含めた大きな災害があると、たいていその後の社会がどのように変わるのかという議論がされます。リーマン・ショックのときも東日本大震災のときもそうでした。今回のポストCOVID-19社会(新型コロナ以後の社会)については、悲観的な予測もありますが、それでもとりわけリベラル派の知識人たちからは、これをきっかけにより良い社会になるという希望も語られています。
 例えば、社会学者の大澤真幸さんは、5月13日放映のNHK視点・論点」の「コロナ危機から『世界共和国』へ」のなかで、「トロッコ問題」に似た「感染症対策と経済活動のジレンマ」を解消するためには、感染症のわずかな兆候を見いだしたら、その地域だけ短期間封鎖して集中的に医療資源を投入し、その間にワクチンや治療法を開発することが大事で、そのためには「国民国家を横断し、国民国家の主権を超えた権限をもつ組織や協調体制」が不可欠だと述べ、今回のパンデミックを、「世界共和国」というユートピアの実現への道の契機としなければならないと言います。
 大澤さんのいうようなシステムの大転換は、理性的な答えとして正しいでしょう。それは、ユヴァル・ノア・ハラリが今回のパンデミックを「独裁か市民の権利拡大か」「自国第一主義か国際協調か」という歴史的分岐点となるとしながら、感染症には「民主主義・国際協調」のほうが結局はうまく対応できるし、ポピュリスト政治家たちも科学的な指針に従うようになっており、気候変動問題でも専門家の声に耳を傾けるようになるだろうと述べていたのと同様に、「理性による社会の進歩」を信頼するものでしょう。しかし、リーマン・ショックのときも3.11のときも、リベラル派知識人たちが社会や世界の大きな変化のきっかけとなると期待したほどには社会は変わりませんでした。もちろん、大澤さんのいうように、このようなシステムの大転換は「今後何十年かけて実現されるべき」ものなのでしょう。けれども、20世紀の歴史は、そのような危機を契機にした理性的なシステムの改革は何十年かけてもうまく行かないということを示しているのではないでしょうか。


 その点では、人類学者でもあるエマニュエル・トッドが「デジタル朝日新聞」の連続インタヴュー「コロナ後の世界を語る」(第18回「コロナで不平等が加速する」5月20日)で語っている(システムに関しての)悲観的見方のほうが当たっているかもしれません。トッドは、パンデミックによる変化は「すでに起きていた変化がより劇的に表れている」のだと言います。この30年にわたるネオリベラリズム的政策によって医療システムをはじめとする社会保障や公衆衛生のための備蓄を脆弱なものにしてきたため、医療崩壊が起きたが、そのことは、経済的格差がそのまま感染リスクの格差にもつながっていて、不平等はこれまでの拡大の傾向をより露わにしているというわけです。そして、経済のグローバル化はいざという時に私たちの生活を守れないし、ネオリベラリズム的な経済政策も人の命を守らないことがはっきりしたことで、生活に必要不可欠なものを生産する自国産業の維持の必要性が高まり、米中の対立に見られるように、国際協調よりも以前からの自国第一主義は「コロナ後」も変わらないというのがトッドの見立てです。すくなくともシステムの変化に関しては、トッドの見立てのほうが当たっている気がします。
 そもそも大災害のときになぜそれを契機に良い方向へと社会が変わっていくはずだという議論が出てくるのかという問いを考えてみましょう。ひとつには、犠牲の大きさの代償を求める心理というのがあるのかもしれません。これだけの犠牲者が出たのだから、これをきっかけに社会が良い方向に変わらなければ救われないという感情が働いているということです。それ自体は人間的な感情ですし、そう思うのは当然でしょう。しかし、良い社会の方向が「理性による進歩」とされるのが気にかかります。その根底には近代の理性への過剰な信頼と社会は進歩するという進歩史観があると思われるからです。
 それは、保守主義が批判する、近代の(フランス革命から続く)「設計主義」ですが、理性によるシステムの設計による改革はそれだけでは社会から切り離されたものであるゆえにかえって害をなすというわけです。良質の保守主義がいうように、社会の変化は社会関係のなかで(社会に埋め込まれて)人びとによって実践され続けるなかで徐々に、すなわち時間に試されてはじめてうまく機能するものになるのであり、それが人間の集合的な叡智による社会のあり方でしょう。理性による設計主義はそれに反するのです。
 ただし、保守主義を全面的に肯定したいわけではありません。良質の保守主義といえども、近代の設計主義に対する反動から生まれたせいか、たいてい近代主義を脱することができません。つまり、近代国家と資本主義を肯定してしまうのです。保守主義者は、近代国家を「集合的な叡智の結晶」であり、資本主義システムを(設計によるものではなく)自生的秩序と解していますが、人類学的視点からすればそれは誤りです。国家も資本主義的な市場も非真正な社会において設計されたシステムであり、保守主義者のいう時間をかけた慣習や集合的叡智(これらは真正な社会においてのみ働きます)を破壊していくものだからです(真の保守主義アナーキズムに近いものとなるでしょう)。


 話を戻せば、大災害の後に社会が変わるとされるのは、人類学的にいえば、大災害によって社会のシステムが一時的に麻痺すると、社会システムによる地位のヒエラルキーがなくなり、通過儀礼の「移行期(過渡期)」である、ヴィクター・ターナーのいうコミュニタスの状態が生まれるので(ソルニットも「災害ユートピア」は、ターナーのいう「コミュニタス」に似ていると言っています)、移行期の後には新しいシステムが生まれると想定されるからだと言えそうです。けれども、注意すべきは、人類学者のいうコミュニタスの後の新しい社会システムへの移行は「進歩」とは無関係だということです。役割関係や上下関係などからなるシステム(ターナーはそれを「構造」と呼びました)が一時的に無効にされ(無礼講と同じです)、反構造としてのコミュニタスが出現しますが、それは山口昌男さんの言い方を借りれば、秩序(システム)を「活性化」させるのであって、その後に登場するシステムは「活性化」されているけれども、システムとしては同じものです。
 それゆえに、リベラル派進歩主義者からは、ターナーのコミュニタス論や山口さんの活性化論は、既成の秩序を維持し再生産することを肯定する理論として批判されたのでした。その批判の源流は、ターナーも一員だったマンチェスター学派の指導者のマックス・グラックマンの1950年代の「反乱の儀礼」という論文への進歩主義者からの批判にあるといえるでしょう。グラックマンは、南アフリカの王権社会に見られる王への反乱を演じる儀礼を、社会全体の通過儀礼(つまり年中行事)と分析しました。なかには歴史的に実際に王制を倒してしまう反乱になったものもあるのですが、機能としては山口さんのいう王権の秩序の活性化にあって、王権の秩序を更新していくものとされたのでした。それに対して、進歩主義者たちは進歩的にもなる民衆の反乱を過小評価するものという批判が出たわけです。ちょうど、日本の近世の一揆を、進歩主義的な歴史家は封建秩序に対する民衆の抗議・抵抗と見なすのに対して、保守的な歴史家が一揆は年中行事のようなものと批判したのと構図は(ひっくり返っていますが)同じです。
 その対立する双方とも見落としているのが、定期的に秩序を「活性化」する意義(民衆=人びとにとっての意義)です。つまり、それをシステムの保持のためとしか見ていませんが、その見方は、定期的にシステムなしの社会を人びとがつねに経験することがどのような意味を持つかということをあまり考えていないように思います。しかし、その経験は社会の基盤たるコモン(基盤的コミュニズム)に根をもちながらシステムの綻びに対して何とかする、何とかできるという根拠を沈殿させていくのです。
 今回のパンデミックでも、グローバル化ネオリベラリズム的な経済政策が人の命を守ることに反していることを人びとは経験しています。それは、リーマン・ショックのときも東日本大震災のときも同じように経験しています。そして、人の命を守り、危機を乗り越えるのに、システムなしの社会、つまり真正な社会におけるコモンが必要不可欠だったという経験も繰り返ししています。たしかにシステムに関していえば、災害ユートピアのあとに、ショック・ドクトリンによるシステムの強化が続き、ドットのいうように、それ以前のシステムのもっている変化や綻びも含めて、同じようなシステムがより悪化したかたちで復興していきます。しかし、システムの綻びが大きくなっていたことを経験し、システムなしで社会が立ち現れることを経験してきたことは、そのコモンを基盤とした社会において、社会の変化を社会に埋め込んだかたちで実現させていく底流にもなるでしょう。希望は、社会から切り離されたような理性によるシステムの設計主義的な改造にではなく、システムを社会に埋め込み直してコモンを拡大していくことにこそあると思います。

 

 ただ、それを真の希望とするためには、健康至上主義的な「ウィズ・コロナ期」の「新しい生活様式ニューノーマル)」を批判していく必要があると思います。というのも、喧伝されている「新しい生活様式」は、買い物や飲み会、会合などもオンラインを活用することで人との接触を削減するというものであり、コモンを阻害するものになっているからです。これは、経済活動を再起動するための指針でもありますが、働き方も在宅勤務が進められています。しかし、テレワークがたやすくできるのは、グレーバーのいう給料のいい「クソどうでもいい仕事」であって、生存に欠かせないエッセンシャル・ワーカーは給料が安くて人との接触なしにできない仕事を続けるしかないでしょう。トッドの言うように、そのような格差を拡大しつつ、人が語り合う居心地の良い場所を避けて生活せよというわけです。
 そして、それは「命を守るため」だとされています。命を守りながら経済活動のできる人たちは「クソどうでもいい仕事」をする高給取りで、コモンを守りながら生存に欠かせないエッセンシャル・ワークをする人たちはより高い感染リスクのまま低賃金で働くというわけです。
 他人の命も自分の命を守ることの重要性(これはもちろん重要なことです)という、誰もが簡単に否定できない価値で脅して、人びとの生活様式を規定・指示する「新しい生活様式」は、人びとを究極的に個人化して支配するやり方と言えるでしょう。そこで言われている「他人の命も自分の命も守る」ということが欺瞞であるのは、本当に他人の命を維持する仕事をする人たちが、この「新しい生活様式」から除外され、社会にとって無くても大して困らない仕事のほうが称揚されていることからも明らかでしょう。
 この「健康」や「長生き」という価値は、進歩主義の最後の砦みたいなものですから、進歩主義的リベラル派も否定できないものといえるかもしれません。人類学者や一部の歴史学者が文化の価値は相対的なものだと言っても、現代文明を頂点とする進歩主義はなかなか廃れません。最近では民主主義という価値が近代や西欧に特有のものではなく、どこにでもいつでもあるものだという認識も広まってきて、理性や民主主義は時代が下れば下るほど増大していると単純には言えなくなってきています(もちろんまだそう言っている人の方が多いでしょうが)。そこで、文明の進歩の確かな根拠として保持されているのが、人間の寿命は長くなっている、それだけでも現代文明は肯定されるべきだという論理です。
 しかし、生きているという実感なしに長生きすることが最も重要な価値とは思えませんし、そこで言われている「健康」というのは医療化された価値であって、人生の価値とは違うものです。「新しい生活様式」の指針に従って、一人で無言で短時間で買い物をし、マスクなしに人と一緒に食事しない、飲みにもいかない、ライブハウスや演劇も生では見ない、という生活をすることが、たとえ感染を防いで健康でいるためだと言われても、楽しいものだとは思えません(僕自身は一人でいることは苦にならないので、けっこう新しい生活様式をクリアできるのですが、人に会わないというのはやはり無理です)。
 だいたい生活様式は自分たちで構築するものです。不特定多数の集まるチェーン店の大きな居酒屋(一人の店員が多くの客と接触する)ではなく、知っている人たちが集まる居心地の良い飲み屋で人と話しながら食べたり飲んだりすることは、家族で一緒に食事することとそれほど感染リスクが変わるわけではありません。ライブハウスについても、出演者も客もライブにおける双方向的な交流の楽しさは、オンラインの配信ではなかなか体験できないでしょう。有名アーティストの出演するライブハウスではなく、互いに知り合いになれるような小さなライブハウスこそ、コモンのためにも大事になります。
 つまり、居酒屋やライブハウスや演劇がだめだと一般化するのではなく、それらのなかでも「真正な社会」を作るような場、「小商い」的な店を大切に維持して、それと非真正なレベルになっている不特定多数の知らない人たちが集まる資本主義的な場を避けるといった工夫が大事になってくるのだと思います(大きな居酒屋チェーンや大きなライブハウスや劇場からは怒られそうですが)。もちろん、経済至上主義から、経済を回したいということには役に立たないかもしれませんが、コモンを守るためには役立ちます。それに、いろいろ制限があるなかで工夫をすることは、本当に楽しいのはどちらだろうと考えるきっかけになるのでのはないでしょうか。

 

日本の「奇跡的で奇妙な成功」

 2か月以上も何もアウトプットしていなかった反動か、しはじめると調子に乗ってつづけたくなります(ツイッターじゃないんだからそんなに頻繁にしなくてもね)。今回も新型コロナウイルスの話ですが、前回までとは違った角度からの話をします。

 共同通信によれば、14日のアメリカの外交誌「フォーリン・ポリシー」(電子版)が、東京発の論評記事で、日本の新型コロナウイルス感染対策はことごとく見当違いに見えるが、結果的には世界で最も死亡率を低く抑えた国の一つであり「(対応は)奇妙にもうまくいっているようだ」と伝えたそうです。同誌は、日本は中国からの観光客が多く、ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)の確保も中途半端と指摘。感染防止に有効とされるウイルス検査率も国際社会と比べ低いが「死者数が奇跡的に少ない」と評し、「結果は敬服すべきもの」とする一方、「単に幸運だったのか、政策が良かったのかは分からない」と述べているとのことです。
 15日現在で、日本の感染者累計数が16,203人で死者数も713人、人口1万人当たりの死者数は0.053人です。安倍首相は、14日の39県での緊急事態宣言解除の際の記者会見で、「我が国の人口当たりの感染者数、死亡者数は、G7先進主要7か国のなかでも圧倒的に少なく抑え込むことができている」と、あたかもコロナ対策がうまくいっているかのように述べましたが、軒並み数字の酷いG7諸国と比べて「どうだ」と言われても、クラスの中で成績の悪いほうの友達と比べて優秀でしょと言ってるようなもので、クラス全体の中では成績のいい方ではないわけです。
 コロナ対策が成功したと言われている国では、台湾で0.002人、ニュージーランドで0.044人、中国で0.032人、韓国でも0.052人と、もちろん日本より低くなっています(そして、他のアジア諸国もほとんど日本より低いのです)。
 これらの国はそれぞれコロナ対策に特徴があり、中国では感染爆発が起きてから強烈な封鎖(ロックダウン)を行なって封じ込めましたし、韓国や台湾ではロックダウンなしに徹底的に感染者を検査であぶり出して隔離し、感染者の位置情報をアプリで表示して接触を避けるというやり方をしました。また、ニュージーランドでは感染の初期にロックダウンをして感染拡大を防止するといったように、数字が低いことの理由がそれぞれ明確に理解できるわけです。それに対して、日本のコロナ対策は、備蓄など前からの準備もなく、行政改革で保健所などの医療行政の機能も極限まで削っていた上、具体的な対策がほとんどなく、ロックダウンもせずに「自粛」という協力の要請だけなのに、なんで比較的低い死亡率なのか、という点が「奇妙」だと言われるゆえんでしょう。感染爆発が起こってから段階的にロックダウンをしたけれども手遅れだった欧米諸国(例えば、人口1万人当たりの死者でいえば、2.5人を超えているアメリカ、5人を超えているスペイン、イタリア、5人に近いイギリス、4人を超えているフランス、約3.5人のスウェーデンといった国々)からみれば、「奇妙な成功」に見えるでしょう。
 その理由については、いろいろなことが言われています。初めのころはBCG接種の率との相関が言われていましたが、その後の世界的な拡大でそのような相関は言えなくなったようですし、また、そもそもPCR検査が少ないのだから死亡率自体が正確ではないという意見も強くありました。
 けれども、15日の報道(毎日新聞・夕刊)では、東京大学などでつくる「新型コロナウイルス抗体検査機利用者協議会」のプロジェクト・チームが5月1日・2日に都内の医療機関で採血した500人分の検体について抗体検査をしたところ、陽性は3人で、陽性率は0.6%という結果が出たということです。また、厚労省が行った新型コロナウイルスの「抗体検査キット」の性能評価の調査でも、東京での500人分の献血の陽性率は0.6%でした。つまり、感染自体が広がっていないのです。これだったらPCR検査が少なくても何の問題もないということになります。PCR検査が少ないのでやばいと言っていた専門家やマスメディアは間違っていたわけです。ただし、これだと2次感染のときには感染爆発が起こりやすいわけですから、いまのうちに検査体制を整備することは必須となります。
 事前の準備も不十分だったし対策も遅れていたのに、感染による死者が少ないのは奇妙でもなんでもなく、感染そのものが広がっていなかったからだと言えそうです。
 では、政府の対策が欧米と同じように遅く徹底もしていないのに感染が広がっていない理由は何なのでしょうか。それについては、文化の違いということが挙げられています。すなわち、日本では、コロナ以前から普段マスクをする習慣が根付いていたこと、そして家に入るときに靴を脱ぐことなどの習慣に要因を求める説が言われています。より人類学的にいえば、日本には、家の内と外とを象徴的に区切るという文化的習慣があったということです。その典型が手洗いのタイミングです。私も『構造人類学のフィールド』で書いていますが、日本の文化では、外から家に帰ってくると手洗いをするという習慣がもともとありました。これは世界的にみれば珍しい習慣なのです。これは古くから定着している細菌に関していえば衛生学的に合理性はありません。家の内と外では細菌の数に違いはないからです(細菌は家の内か外かを区別しません)。ヨーロッパでは、日本と違って食事の前に手を洗う習慣になっています。古くからある病原菌に関しては、どちらでも衛生学的効果に変わりがないはずです(むしろ欧米のように食事の前に手を洗ったほうが家の内で手に付く菌を食べる前に洗ったほうが合理的といえるでしょう)。しかし、新型コロナウイルスのように新しく発生したウイルスに関してはそうではなく、はっきりとした違いが出ます。新型ウイルスは、最初は家の中には存在しなくて家の外で付くものです。つまり、欧米の習慣では、手に付いたウイルスも靴に付いたウイルスも家の内に持ち込んでしまうのです。家に入るとき、靴を脱ぐのも手を洗うのも、もとは家の内は清浄で外は穢れているという象徴的な表現をするための行為だったのですが、それがCOVID-19の感染予防に適合していたのです。
 もう一つ要因として人類学的に考えられるのは、昔にエドワード・T・ホールが唱えていたパーソナル・スペース(対人距離)の文化による違いです。ヨーロッパで最初にイタリアで感染爆発があったときに、イタリアではハグやキスなど「濃厚接触」をやたらする習慣があるからと言われもしました。スペインについてもそのように言われました。その後、ドイツやイギリスでも感染爆発があり、そのようなことは言われなくなりましたが、パーソナル・スペースの違いについてはまだ相関があるかもしれません。パーソナル・スペース(対人距離)には、他人や親しくない人に近づかれると不快や不安になる社会距離、家族や恋人など親密な人との密接距離、友人や知り合いとの個体距離などがありますが、とりわけ他人との社会距離は、文化によって違うことが知られています(同一文化内でもジェンダーや階層によって違います)。ホールが正確になんと言っていたかはいま手元に本がなく忘れてしまいましたが、その後、社会心理学者たちがいろいろな文化でこの社会距離を測っています。日本の場合は満員電車の事例をどう解釈するかによって長くなったり短くなったりします。それじゃ使えないという感じですが、実験によって測る(図書館や公園、レストランなどで、わざと近づいて行って相手が落ち着かなくなったり席を立ったり遠ざかったりする距離を測る)のと観察を併せた研究を見ると、アルゼンチンやペルーなどの南米が最も短く(85cm前後)、スペインやイタリアでも短くて(90cm前後)、ドイツやイギリスはそれより少し長く(それでも100cm以下)、中国が120cm。日本は中国よりも長いという結果が出ているようです。満員電車やバス停の行列の場合は日本人も不快に思っているけれども、遠ざかれないので我慢しているということなのでしょう。もうひとつ、あまり指摘されていませんが、日本では露骨に遠ざかると相手がいやな気持になるのではないかと忖度するということもあるかもしれません(それで日本は社会距離が短いという研究も出ているのでしょう)。つまり、自然に遠ざかることができる場所では、日本人は社会距離が長いということが言えそうです。この平均して40cmくらいの違いがどれだけ新型コロナウイルスの感染に影響するのかは、もちろんわかりませんが、感染予防のためのソーシャル・ディスタンシングが言われる以前から、日本では他人との無意識のソーシャル・ディスタンスが他の国よりも長く(アメリカのある社会心理学者は日本人の社会距離は刀が届く距離だと言っているそうですが、日本人が全員サムライだと思っているようです)、そのために感染が広がりにくいという仮説も成り立つかもしれません。
 あと日本だけではなくアジア諸国と欧米の違いとして、普段からマスク着用という慣行があるかないかが大きいのかもしれません。いまだ死亡者数がゼロのベトナムも近年、中国と同様に排気ガス対策でマスクをする習慣があったし、日本では「だてマスク」をする人も多かったというように、アジアではマスク着用が普通のことであるのに、欧米では健康な人がマスクをすることはなかったわけです。
 今回のCOVID-19のパンデミックで私が驚いたのは、ウイルス感染対策にマスクが効果があるということがわかったということでした。WHOの専門家も欧米の専門家も、そして日本の専門家も、誰もが、N95の高性能の医学用マスクではない一般用の不織布のマスクにウイルス感染予防の効果があるとは言っていませんでした。それはそうでしょう。ウイルスのような微細なものがそれよりはるかに大きな穴やすき間のあるマスクで遮断できることなど、誰もわかっていなかったのです。私がびっくりしたのは、4月21日の毎日新聞(朝刊)に、これまでのコロナウイルスの感染者を使った実験で米中の研究チームが、不織布の使い捨てマスクをすると、飛沫の中に含まれるウイルスの拡散を抑制できることを実験で確かめたと米科学誌「ネイチャー・メディシン」に発表したと報じられていたことです。研究チームは、コロナウイルス感染者(延べ21人)を、ポリプロピレン製の不織布の使い捨てマスクを着用したグループと非着用グループに分け、呼気を30分間採取して調べたところ、 直径5マイクロメートルより大きい飛沫についてはマスク非着用の10人中3人からはウイルスが検出されたけれども、着用した11人は全員、マスクの外に出た飛沫から検出されず、さらに、飛沫よりも小さく空気中を漂う「エアロゾル」(直径5マイクロメートル以下)についても、非着用の10人中4人からは検出されたが、着用者からは検出されなかったのです。研究チームは「新型ウイルスについても、感染拡大を抑えるために、感染者のマスク着用によって同様の効果が期待できる可能性がある」と述べているということです。それまでそのことを実験で確かめようと思った人がいなかったというのも、常識にとらわれていたということなのでしょう。まあ、そうですよね。飛沫もエアロゾルも通す穴があるマスクが、ウイルスを通さないなんて思うほうがおかしいでしょう。だからWHOも微細なウイルスには効果なしと言っていたわけです。この実験のせいか知りませんが、途中から欧米の専門家もWHOもマスク着用を推奨するようになりました。
 ということで、対策が遅れロックダウンも不十分だった日本でCOVID-19感染が危惧したより広がらなかったという「奇妙な成功」の理由は、日本人がまじめで(従順で)外出を自粛して三密を避けていたからでも、衛生学的に清潔だからでもなく、家の内と外とを象徴的に区分する、外から帰ってきたときに靴を脱いで手を洗うという文化的習慣を持っていたこと、無意識の社会距離が他の文化よりも長かったこと、マスク着用の習慣があったこと、日本にすでに有ったそれらの文化的習慣の重なりが、たまたまCOVID-19感染予防に適合していたという幸運に恵まれていたからだというのが、人類学者としての仮説です。もちろん感染症の専門家ではないので、当たっているかどうかはまったくわかりませんが、感染症の専門家にも参考になるのではないかとは思います。

 

人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(2)

 前回、〈コモン=共〉における相互扶助(「共助」)による社会のあり方に目を向けることが、ポスト・コロナ社会を考えるうえでも重要な人類学的視点となるというところで終りました。今回はその続きです。
〈コモン=共〉について、ネグリとハートは、『コモンウェルス』(NHKブックス)のなかで、それは「私たちの周りのいたるところにあるにもかかわらず、今日の支配的なイデオロギー[すべてのモノを所有物とみなし、私有物か公有物かのどちらかに分割してしまうイデオロギー]に目を曇らされているため、きわめて見えにくい」ものになっているといいます。つまり、近代社会が公(パブリック)と私(プライヴェート)という二分法によって成立しているために、あらゆる社会の基盤になっている〈コモン=共〉が見えにくくなっているというわけです。
 そのことを「アベノマスク」の例で考えてみます。安倍首相が布マスク2枚を全世帯に配ると発表したのは、4月1日でした。いまだにほとんどの世帯に届いていないようですが、緊急支援策としてなぜマスクだったのでしょう。確かに2月以降、中国での不織布のマスク製造の中止や人々のマスクの買い占めなどで、市場からマスクが消え、またネットでの高値の転売も見られました。つまり、マスクを私的領域の市場に委ねることによるシステムの機能不全が起こり、医療機関でのマスク不足も懸念される状況でした。そこで、公的領域である国家が介入してコントロールするという政策は合理的だったと言えます。実際、台湾政府は2月の早い段階からマスクを一種の配給制にして市場システムの機能不全の対処に成功しています。それに比べて、布マスク2枚の配給と転売禁止だけというのは中途半端な政策であるし、また今から言えば配給が遅すぎるというと言えますが、私的領域でのシステム機能不全を公的に修復する政策という意味では台湾の完全配給制と同じ種類のものです。
 ウィキペディアによれば、発案したのは佐伯耕三内閣総理大臣秘書官であると見られており、首相に対して「全国民に布マスクを配れば不安はパッと消えますよ」と進言したといいます。しかし、もし市場システムの機能不全からくる不安を解消するために役立つものであれば、これだけ配布が遅くなったときに、それを非難して「早く配れ」という声が大きくなったはずですが、実際に上がったのは「もう配らなくていい」という声の方でした。つまり、そもそも「アベノマスク」は市場の機能不全による不安解消の効果はなかったということになります。
 では、市場からマスクが消えたので公的支援として支給するという一見合理的にもみえる「アベノマスク」はなぜ最初から失敗だったのでしょうか。それは、発想した官僚や政治家が、公(パブリック)か私(プライヴェート)かという二分法のイデオロギーに目を曇らされて、共(コモン)という領域を見逃していたからだと思います。つまり、市場というシステムの機能不全による不安は、公的なアベノマスク以前に、共(コモン)における相互扶助によって解消されていたのではないか、というのがここでの仮説です。
 市場という私的領域では、人は利己的に行動します。利益のための転売は資本主義的には当たり前の行動ですし、品薄になれば買い占めることによって自分だけでも不安を解消しようとするのも消費者として当然の行動です。それが市場システムのルールに則った行為だからです。しかし、マスクは手作りできるものです。マスクが品薄になってからさまざまなメディアでマスクの手作りの仕方も出回りました。そして、マスクを手作りしてうまくできると人にあげたくなります。商品としてのマスクを買い占めていた同じ人が、マスクを手作りするとただで人にあげたくなるというのが面白いところです。また、マスクを買いだめした人も、親しい人にはおすそ分けするでしょう。「マスクが足りなくなったら言って。余っているから」というの会話は普通に聞かれたはずです。
 つまり、その人が利己的なのか利他的なのかという性格の問題ではなく、市場という私的領域では利己的に振る舞うように要求されるからそのように行動するが、初めてマスクを手作りしてみたという行為は、市場という領域とは無関係のところでなされる行為なので利己的になることなく、人にあげて喜ばれるのがうれしいという行動をとるわけです。それは、コモン=共という領域では当たり前の普通の行動なのです。小池都知事のマスクは「百合子マスク」と呼ばれているそうで、近所の人が作ってくれたのをもらっているという話ですが、市場から商品としてのマスクが消えたとき、その不安を解消してくれるのは政府が公的支援として配給する「アベノマスク」ではなく、人びとが分かち合っている(シェアリングしている)「百合子マスク」のほうだったのでしょう。
 このように、システムが機能しなくなったときに大事となるのが、別のシステムというより、社会の基盤に潜在していたコモン=共における相互扶助(グレーバーのいう「基盤的コミュニズム」)なのです。ただ、新型コロナウイルス感染症が厄介なのは、感染予防のために、人と人との接触を削減せよ、人と共に飲食することを避けよ、といった行動方針が出されることです。そのような接触や共食こそがコモン=共を作る場であり行為であるのに。つまり、ポストCOVID-19社会では、在宅勤務が常態になることも含めて、コモン=共を生む場が削減された社会となってしまう可能性があるのです。
 それに関連して、ポストCOVID-19社会には「お店」や「小商い」の危機ということがあります。当然、お店も小商いも資本主義システムの中にあります。しかし、平川克美さんが『小商いのすすめ』という本(ミシマ社、2012年刊)のなかで、「小商いとは、自分で売りたい商品を、売りたい人に届けたいという直接的につないでいけるビジネスという名の交通であり、この直接性とは無縁の株主や、巨大な流通システムの影響を最小化できるやり方」なのだと言っています。このように、小商いはシステムのただなかでの営みでありながら、コモン=共における相互扶助に近い性格をもっていました。その「お店」や「小商い」が危機をむかえています。そして、その危機を乗り越えるやり方も、コモン=共における相互扶助しかないのです。つまり生産者・経営者と消費者・顧客というシステムにおける役割関係ではなく(「金を払っている客なんだから」という態度をとる人は「お店」や「小商い」から弾き飛ばされます)、苦しいときは互いに助け合うという相互扶助の関係をそこに維持していくことが、公的支援とともに重要になります。
 それにしても、「お店」や「小商い」への公的な支援は遅いし少ない。せめて家賃保証ぐらいすぐにできるのかと思っていましたが。これは、小商いの店を潰して大手だけを救済する災害資本主義(惨事便乗型資本主義)かと勘繰りたくもなります。政府は休業した店に対して直接の公金による補償はできないという立場を崩していません。安倍首相は4月7日に、緊急事態宣言で営業休止を求められた事業者への直接の補償はできないと明言しました。その理由は、休業要請にかかわる飲食業に補償したとしても、同じく事業に影響が出る「飲食業に品物を納入する仕入れ業者や生産者」は休業要請外となり補償も対象外となるため、公平性を保てなくなるという、よく分からないものでした。「飲食業に品物を納入する仕入れ業者や生産者」には直接に休業要請や指示をするわけではないという明確な違いがあるのですから、公平性に問題はないでしょうし、そもそもそれらの業者にとっても取引している飲食業がなくなってしまえばもっと重大な損失になるでしょうから、不公平だという主張はしないでしょう。前にも述べたように、小商いは、仕入れ業者や客との間に直接的な持ちつ持たれつという相互扶助の関係を作るものですが、首相の見解は、そのようなコモンや相互扶助を否定するだけでなく、そのような関係を壊そうとしているのだといえるでしょう。
 新型コロナウイルス感染症パンデミックは、自分のやっている仕事が社会的に役に立っているのか、不要不急ではないのか、あるいは「クソどうでもいい仕事」なのではないのかということを考えさせる機会になっているのは確かでしょう。デヴィッド・グレーバーの『クソどうでもいい仕事(Bullshit Jobs)』という本には、2015年にイギリスの調査会社が本の基となったグレーバーの短いエッセイを引用しながらおこなった調査の結果が記されています。それによれば、自分の仕事が「世界に意味のある貢献をしている」と思っている労働者は50%に過ぎず、37%の人が有用な貢献をしていない仕事だと思っているということです。この数字は、今回のパンデミックによる休業を受けて、もっと上がっているのではないでしょうか。
 グレーバーのいう「クソどうでもいい仕事」の多くは組織の維持、防衛、飾りつけのためのものです。具体的には、企業弁護士、ロビイスト、マーケッター、PR調査者など、組織の敵にたいする攻撃をする仕事、受付係、秘書、広報、社内広報誌の編集など、組織を立派に見せるための仕事、出来の悪いプログラムの修正など、そもそもあってはならない問題を日々手直しする仕事、何も決定せず次の日には忘れてしまうような合意を作る会議やプレゼンの仕事、そしてそういった無用な業務を生み出す中間管理職などの仕事が挙げられています。こういったクソどうでもいい仕事は金融、保険、不動産といった部門に多いとグレーバーは言います。
 経済を防衛するために経済を回すというとき、守るべき仕事はこのようなクソどうでもいい仕事です。これらは高給でありGNPを押しあげているものだからです。それに対して、パンデミックの最中にも休業できない、生存経済を維持する仕事、すなわち「命のケア」をする仕事である、看護師や介護士などの医療従事者、食糧を生産する農業従事者、バスの運転手など公共交通機関の従事者、スーパーなどの食品小売業の従業員、教師、保育士、ごみ収集の従事者などは、医師という例外を除けばたいてい低賃金だとグレーバーは言います。このような仕事をしている人たちは、現在、感染のリスクを負いながら働いているにもかかわらず、人びとの差別や怒りのはけ口となっています。また、そのような「命のケア」をする人たちのケアをする仕事、たとえば医療従事者の子どもを保育する仕事や、その人たちのためにボランティアで食料の配給や買い物をする人たちも、リスクを犯して働いています。
 休業を余儀なくされている仕事の中にも、クソどうでもいい仕事ではなく、社会にとって有用な仕事があります。社会的に有用な人たちが明日を生きるために、居心地の良い「サードプレイス」を提供している飲食店やパブ、カフェの営業や、音楽、演劇、美術などの芸術を提供する人たちの営み、すなわち「命の再生産」の(日本語で「いのちの洗濯」と表現する)仕事です。
 これらの仕事を維持するためにはシステムによる公的支援が不可欠なのですが、それだけに頼っていては失われてしまいます(ただでさえ日本では「クソどうでもいい仕事」の保護が優先されますから)。そのためにも(そしてシステムに頼り過ぎないようにするためにも)、ボランティアを含めたコモン=共による相互扶助(共助)が大事になってきます。震災のときとは違って、今回のパンデミックは移動が制限されているのでボランティアがしづらい面もありますが、逆に言えば被災地が限られていないので、自分の身近で、自分で見つけだすボランティアの余地はいくらでもあるわけです。それこそ、指示によって動くのではなく、自分たちで創意工夫をする共助という、自治社会に向けてのボランティア活動が生まれてくる可能性があるのです。

 そのことは、「災害独裁(惨事便乗型独裁)」に対抗して民主主義を創りだす実践についても言えます。そもそも新型インフルエンザ等対策特別措置法は、罰則や強制力なしの外出規制をするもので、その意味で悪い法律ではないでしょう。日本維新の会はこの法律についてボロクソに言っていますが、その理由として挙げている強制ではないので補償ができないという点は、強制でなくても補償をやろうと思えばできるのですから間違っています。安倍首相も西村担当相も「要請」だから補償しないとは言っていないし、特措法に補償が明記していないから補償はできないとも言っていません。別に決めればできるわけですからそうは言えず、だから公平性に欠けるとか他国でもやっていないというでたらめな理屈(ドイツでは労働者だけではなく事業者にも補償しているはずです)を述べているわけです。維新の会の主張している欠陥は、罰則や強制力も付けて憲法にも緊急事態条項を付けるということを正当化するためのものということでしょう。
 もちろん補償はするべきです。しかし協力の要請だけでは限界があるので罰金などの罰則や警察などによる強制執行などをできるようにするべきというのは、システムや権力に服従させたいというだけです。ハラリが「フィナンシャル・タイムズ」紙への投稿で言っているように、今日、何十億もの人が毎日石鹸で手を洗っているのは、手洗いを怠る人を取り締まる「石鹸警察」や罰則を恐れているからではなく、この単純な行為が自分を含めた多くの人の命を救っているからだという事実を理解しているからです。犯罪社会学が統計的に明らかにしているように、法を犯す人が少なくなるのは罰則を強化することによってではなく、人びとがその決まりの意味を理解することによってなのです。いわゆる「自粛警察」を買って出る人たち(店に貼り紙をしたりする行為自体が犯罪だという矛盾はさておき)は、その理由を少しも理解せずに、実際に他の人びとの命を脅かす行為かどうかに関係なく、自分が権力に盲目的に服従しているのに、服従しない人がいることに我慢できないというだけです。
 実際に罰則や強制力もない特措法に基づいて外出やその他の行為の規制を要請するときに大事なのは、為政者や専門家がきちんとその理由を説明して理解してもらうことです。実際に説明がうまくいけばほとんどの人たちは協力します(いまでも9割くらいの事業者たちが補償は十分でないのに協力しています)。最初から生存に関係のない仕事をしている事業者や企業に(つまり基本方針で生活に必要な業種を決めて、それ以外の事業者に)労働者を出社させないように協力を要請していれば、とっくに緊急事態宣言は解除できたでしょう。もちろんそれは経済至上主義を採る政府にはできなかったでしょうが、長引けばそちらのほうが大きな悪影響をもたらす可能性が高いでしょう(ですからニュージーランドは早く厳しく制限して既成の期間を短くするという選択をしたわけです)。
 つまり、罰則や強制力もない特措法の意義は、強制力によって従わせるのではなく、政治家も専門家も言葉による説明を丁寧にして理解してもらうという民主主義を実現させる可能性があるということにあります。そして、そちらのほうが罰則や強制力や独裁的な監視よりも、自分のためという合理性にしたがって要請に協力するという、より広範囲な効果を期待できるのです。実際、不要不急の通勤をやめていたならば、罰則や強制力なしに8割の接触削減はできたというのが専門家委員会の分析でした。通勤を止められなかったのは特措法の不備ではなく、その運用の不備だったのです。
 この場合でも、その民主主義はシステムとしての議会制民主主義(間接民主主義)というよりも、直接言われたことを自分で理解した上で従うという「自治」の民主主義です。もちろん、議会で立法した法律というメディアで規制し、それの意義や理由を首相や自治体の長がマスメディアを使って説明するというのはシステムの次元(非真正な社会のレベル)のものであり、メディアを介した分だけ非真正性(まがいものらしさ)が付きまといます。しかし、そのシステムの中で、コモンや真正な社会のレベルにおいてシステムへの依存を縮減してその支配を和らげることはできます。顔見知り同士でそれについて語り合い理解すること、そしてそれぞれの個別の事情も知っている仲であれば、理解しながらも従えないという事情も分かり合えます。そこにはファシズム的な「自粛警察」が出現する余地はないのです。
 もちろん、ハラリの言うように、システムとしての議会制民主主義や科学的合理性によって惨事便乗型独裁に対抗することも必要です。けれどもそれだけだと、非真正なレベルでのシステムの支配や専門家支配を強化してしまう恐れがあります。それに対抗するには、真正性の水準で区別される二つの民主主義の区別をして、コモン(真正な社会)での直接的コミュニケーションによる民主主義を基盤にして、そこからシステムを懐柔していくことが大切なのです。 

人類学的視点からみたポストCOVID-19社会(1)

 およそ10年と7か月ぶりにブログを再開することにしました。今年の3月31日に大学を定年退職して、大学教員にとって日常的なアウトプットであった授業がなくなって、そろそろ何かを発信したくなってきたというのが再開の理由です。そもそもこのブログを始めたきっかけも研修休暇で授業がなかったからでした。
 さて、このタイミングでブログを再開するとなると、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックについて述べないわけにはいかないでしょう。実際、今回のパンデミックには、いろいろと考えることもたくさんあります。また毎日、家に閉じこもっているので、ネットでパンデミックについての専門家や知識人の論評を読むという生活をしています。この再開したブログでも当分、このパンデミックについて語ることになると思います。

 第一回目としては、新型コロナウイルス以後の社会(「ポストCOVID-19社会」)について考えたいと思います(長い話になることを覚悟してください)。「ポストCOVID-19社会」についてはすでに議論がいくつかなされており、そのなかでは「独裁か民主主義か」という二つの道を挙げている議論があります。例えば、『サピエンス全史』などで世界的に有名になったイスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは、2020年3月20日の「フィナンシャル・タイムズ」紙の「新型コロナウイルス後の世界」という記事や

「デジタル朝日新聞」の「コロナ後の世界を語る」という連続インタヴュー(第7回4月15日)において、私たちが迫られる重要な選択の一つに、「全体主義的な監視か市民の権利拡大か」、「独裁体制か民主的な制度の維持か」というものがあると述べています。また、内田樹さんも、『月刊日本』(4月22日)の「コロナ後の世界」と題されたインタビューで、「独裁か、民主主義か」という歴史的分岐点について述べています。そこでは、中国のように独裁体制によって封じ込めを行なうほうがアメリカや日本のような民主制よりも、感染対策に有効だという見方が出始めているという危惧です。実際、日本の封じ込めがうまくいかないのは憲法に緊急事態条項がなくロックダウンできないからだという短絡的な意見が政権の近くから出てきています。
 災害が起こったときに、それまで社会関係に埋め込まれて交換価値化(商品化)しにくかったものを災害によって社会関係が壊れたことを利用して交換価値を創りだし、新たな金儲けのチャンスとするやり方を、ナオミ・クラインは、「ショック・ドクトリン」による「災害資本主義(惨事便乗型資本主義)」と呼びましたが、それに倣えば、コロナ禍を利用して緊急事態条項の必要性を説くのは、「災害独裁(惨事便乗型独裁)」と呼べるでしょう(ハンガリーのオルバン政権が最も顕著な例です)。
 それが「便乗」であるのは、憲法に緊急事態条項がないから、あるいは民主主義だからロックダウンできずに封じ込めがうまくいかないというのは間違っているからです。封じ込めに成功したニュージーランド独裁制だからできたわけではなく、またドイツの憲法には緊急事態条項はありますが、外出禁止令によるロックダウンにそれを使ったわけではありません。
 アメリカやイギリスやブラジルが封じ込めに完全に失敗し、日本がなかなかうまくいかないのは、民主制か独裁制かに関係なく、これらの国がネオリベラリズム的な経済至上主義を採っているからと言ったほうがいいでしょう。つまり、そこには「独裁か民主主義か」という対立軸とは別に、「経済か命か」(「市場経済か生存経済か」)という対立軸があります。
 ネオリベラリズム的な経済至上主義の最も極端な例は、「ブラジルのトランプ」と称されるボルソナロ大統領でしょう。彼は、3月24日のテレビ演説で、新型コロナウイルス感染症を「ちょっとした風邪」と呼び、「われわれは生き続けなければならない。雇用を守らねばならない。普段通りに戻らなければならない」と主張、25日にはサンパウロ州のドリア知事など自治体による商業施設閉鎖等のロックダウン措置について「ブラジルを破壊する犯罪」と表現しました。
 日本の安倍政権も、アメリカのトランプ大統領やボルソナロ大統領ほど馬鹿正直には表現しませんが、似たような経済至上主義を採ろうとしていたのだと思います。ただ、何か対策をする振りはしなければならないということで、感染の広まってきた2月27日に唐突に3月2日からの学校の全国一斉の休校措置を発表します。「アベノマスク」同様に、官邸官僚のアイデアという話ですが、たいして必要とも思われず、文科省も考えていなかった措置を何かしているという証明に選んだのは、それが経済活動にたいする影響が少ないと思ったからでしょう(男たちは保育のことは思い浮かばなかったわけです)。そして、3月中旬にそのままでも使えたはずの新型インフルエンザ特措法の改正がなされたのも、対策を講じているという時間稼ぎだったと思われます。特措法が改正された後は早い時期に憲法の緊急事態条項の予行演習として緊急事態宣言がなされるという観測もありましたが、経産省主導のアベノミクスを唯一の政権基盤にしていた安倍政権にとって、緊急事態宣言はできればしたくなかったはずです。だいたい、コロナ対策の担当大臣が厚生労働大臣ではなく、経産省官僚出身の西村「経済再生担当」大臣であるところにそのことがよく表れています。しかし、欧米で感染爆発が起き、東京オリンピックの延期が決まる頃になると、日本でも感染爆発が起きるという予測が専門家会議の専門家からも出され、オリンピック延期まで何もしていなかった小池東京都知事が「ロックダウン」(都市封鎖)という言葉を用いて感染爆発が起こるかどうかの瀬戸際だと会見で表明してから、シナリオが崩れ奇妙なねじれを伴う迷走が始まります。政府は、特措法では「ロックダウン」はできないのだと火消しに躍起になり(ロックダウンが日本の法律では不可能だというのは後でいうように都市封鎖の解釈の問題であり、不正確な言い方です)、小池都知事や吉村大阪府知事が「命ファースト」や外出自粛要請などを出しても、安倍政権は緊急事態宣言を4月7日まで先延ばしにするだけでなく、宣言をした後も、西村担当大臣は、東京都など自治体がさまざまな業種の休業要請を検討していたのに対して、休業要請を2週間程度見送るようにと言ったのでした。つまり、宣言をしたのにもかかわらず4月21日まで何もしないつもりだったのです。それは、小池知事など知事たちの「反乱」によって覆され、各知事は特措法の第四十五条(感染を防止するための協力要請等)に基づき、休業要請をしました。そのときどのような業種に要請するかという協議においても、経産省クラスターの発生源となっていた飲食店を外したりデパートの地下食料品売り場を外したりとできるだけ範囲を絞るということをしています。
 ところで、特措法の第四十五条の最初の第1項は、「特定都道府県知事は、新型インフルエンザ等緊急事態において、新型インフルエンザ等のまん延を防止し、国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済の混乱を回避するため必要があると認めるときは、当該特定都道府県の住民に対し、新型インフルエンザ等の潜伏期間及び治癒までの期間並びに発生の状況を考慮して当該特定都道府県知事が定める期間及び区域において、生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことその他の新型インフルエンザ等の感染の防止に必要な協力を要請することができる。」というものです。つまり、まず「施設管理者等」(事業者)への要請ではなく、住民に対しての「生活の維持に必要な場合を除」いた外出禁止の要請になっています。これは実際に各知事からなされた「不要不急の外出」よりも厳しく、「生活の維持に必要な」仕事以外の仕事に出ることも禁止するという「ロックダウン」の要請なのです。しかし、この第1項は明確に要請されることはなく、テレワークできない場合、生活の維持に必要ではない仕事でも通勤しつづけていました。本気で「8割の接触の削減」を実現したかったら、住民に外出禁止を強く要請し、施設管理者たる企業にも休業要請を出すことはできたはずです。なにせ感染爆発の瀬戸際だというのは首相も言っていたのですから(実際に起きてからでは遅いわけです)。実際、6割程度の接触の削減しか達成されず(専門家も接触削減が6割にとどまっていたのは通勤が減らなかったからだと分析しています)、そのために5月7日に緊急事態宣言の解除はできず、延期されました。そのしわ寄せは飲食店や小商いをしている店(事業者・従業員)に押しつけられたわけです。
 その責任は、ロックダウンのような外出禁止はできず「自粛要請」までだ(要請であり罰則もないけれども、「自粛」などではなく、実際には事業者には「ロックダウン」の要請に従う義務が生じる「指示」ができる)と明らかにミスリードした政府にあるでしょう。そして、各知事も、営業を続けるパチンコ店(実際には、パチンコ店でクラスター発生は報告されていなかったにかかわらず)に休業の「指示」はしても、不要不急の仕事のために(現在給料の良い仕事の大半は、人類学者のデヴィッド・グレーバーのいう「クソどうでもいい仕事」、必要のない仕事なのですから)労働者に通勤を強いる企業には休業の要請などはせず、マスメディアも、営業を続けるパチンコ店をスケープゴートにして非難しても、不要不急の企業活動を非難することはないわけです。そして、営業するパチンコ店に対して罰金などの罰則がないこと、あるいは感染した人が移動してしまうことも阻止できない特措法の強制力のなさへの批判を生んで、日本も「ロックダウン」できるように憲法に緊急事態条項を入れるべきだと世論を誘導しているだけにみえます。
 つまり、「経済か命か」において政府と対立しているように見えていたことで支持率を伸ばしていた小池東京都知事や吉村大阪府知事も、強制力のある権限強化という惨事便乗型独裁へと向かう点では一致しているのです。実際、小池知事も(吉村知事の属している)維新も緊急事態条項を含む憲法改正賛成派です。
 ところで、「経済か命か」という対立に対しては、経済至上主義の立場から、「経済的な理由による死」という言葉によって、「経済か命か」ではなく「命と命」であるという言い方がなされています。たとえば、国際政治学者の三浦瑠麗さんは3月15日の「ワイドナショー」という番組で、「経済が死んだら終わり」と述べ、「それは経済VS命ではなく、命VS命。コロナで死ぬ命と、経済で死ぬ命は等価なんです」と語ったと報じられています。また、三浦さんは4月22日にツイッターで、「ロックダウンと強い自粛の長期継続は大恐慌を作り出す。それによる格差の拡大は弱者を直撃し、数多のひとの命と将来が失われることになる。それを防ぎたければ、高齢者と持病持ちの方々の健康に配慮した行動制限とともに医療体制を拡充し、はやく経済を回しはじめなければならないということです」とツイートしてます。経済を回せというのは外出自粛要請を緩和しなければならないということでしょう。それによって確実に感染者は増加し死者も増えますが、経済が落ち込めば経済的な理由による死者も増加するので、同じく死者が増えるなら経済を回した方がましだという論理なのでしょう。
 このような「命VS命」という主張は、言葉遣いこそ違いますが、ブラジルのボルソナロ大統領と同じ論理です。あるいは、同じく死者が出るのであれば、ロックダウンを緩和して元気な感染者を増やして集団免疫に近づけたほうがましという論理(スウェーデンが採ったものです)も働いているのかもしれません。
 「命VS命」論の問題点は二つあると思います。一つは、「感染による死」と「経済的理由による死」とをトレードオフにある選択と見なし(2点目で指摘しますが、実際にはトレードオフではありません)、その二種の命を比較することを強いることによって倫理の崩壊を招く点にあります。市場経済を回すことを優先させることを正当化するためには、死者の数が「経済的な理由による死者」のほうが多くなる(そう述べる論者はけっこういるのですが根拠は示されません)という「数」の論理か、感染による死者の多くは65歳以上の老人や介護の必要な障がい者、つまり生産性の低い人たちだという優勢思想的な論理(さすがに表立っていう人はいませんが)かです。いずれにしろ「弱者こそ救うべきだ」という倫理の精神がそこでは崩れていきます(この崩壊はもちろんコロナ以前からネオリベラリズムによって進行してきたものですが)。
 二つ目の問題点は、経済的な低迷による死者の増加という相関関係は、ロックダウン緩和による感染死の増加の相関関係とは違って、因果関係ではないという、社会科学的な論理を無視していることにあります。経済的な理由による死者の増加ということの根拠として持ち出されるのはたいてい「失業率と自殺率の相関関係」ですが、この相関関係は普遍的な因果関係ではないのです。ちょうどいいタイミングで、デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・パスの『経済政策で人は死ぬか?』(草思社、2020年)という翻訳本が出ましたが、そこで紹介されている失業率と自殺率の相関関係を見ると、スペイン、アメリカ、イタリアなどでは失業率と自殺率の変動に強い相関がみられるけれども、フィンランドスウェーデンアイスランドでは失業率と自殺率の変動に相関がみられないこと、たとえばスウェーデンでは1990年代のバブル崩壊の不況によって失業率が急上昇したにもかかわらず、自殺率は1980年代から2000年代にかけて一貫して減少しつづけているのです。そして、日本も含めて失業率と自殺率の変動に強い相関がみられる国は緊縮政策を採っている国です。失業率と自殺率の変動に相関がみられない国があるという事実は、経済的不況によって自殺者が増加するというのは偽の因果関係ということになります。
 大不況になると弱者の命が失われることを理由に、市場経済を回せと言っている市場経済至上主義は、ネオリベラリズム的な緊縮を維持しながら(これだと失業率と自殺率の変動に強い相関関係が出てしまいます)、現在の経済システムを強化していこうとする惨事便乗型資本主義だと言っていいでしょう。「経済的な理由による死者」は、彼らが前提としているシステムを「反緊縮」へと転換することによって救われる死者たちであり、感染死者と自殺者の数はトレードオフではないのです。

 さて、この記事は、「人類学的視点からみたポストCOVID-19社会」と題していますが、まだ本論に入っていません(いつものことですが)。しかし、もう長すぎるものになってきましたので、「人類学的視点」ということだけに触れて、本論は次回にまわすことにしましょう。
 パンデミックに限らず大震災や大恐慌などの大きな災害があると、行政機構や市場など大きな社会のシステムが機能不全に陥ります。今回でいえば、普段の治療が病院で受けられなくなるといったことや、人びとがマスクを店で買えなくなるといった事態が市場システムの機能不全というわけです。支配者やエリートたちは、続いてきた既存のシステムのおかげでエリートの地位を得た人たちですから、彼らが何とかしてこのシステムを復興させ、強化したがるのは当然でしょう。それが「ショック・ドクトリン」による惨事便乗型資本主義や惨事便乗型独裁です。彼らは人びとの生活や命よりもシステムの維持を優先させるのです。
 しかし、災害時には、それとは別の方向性も出現します。システムが機能しなくなると、人びとはそういったシステム抜きで生き残らなくてはならなくなります。そのとき生活を維持するために出現するのが、近代以前の小さな社会、すなわち顔の見える人たちの間の相互扶助であり、それがレベッカ・ソルニットのいう「災害ユートピア」です。それはシステムなしに生き残るために出現する「基盤的な社会」なのであり、ネグリとハートがいう「コモン=共」あるいは人類学者のデヴィッド・グレーバーのいう「基盤的コミュニズム」とも言い換えられるものです。
 つまり、大災害の後には、システムに依存しない「コモン=共」による小さな社会の再興という「災害ユートピア」の方向性と、大きなシステムへの依存をより強化する「ショック・ドクトリン」の方向性とのせめぎ合いが起こるわけです。ここで大事なのは、このせめぎ合いが同じ地平での対立ではないということです。すなほち、大きな社会のシステムと、具体的で顔のある人と人とのつながりである「コモン=共」は異なるレベルにあるのです。この区別は、このブログの古い記事で幾度となく触れてきた、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」、すなわち500人からなる真正な社会と5万人やそれ以上の人たちからなる非真正な社会の区別と一致するものです。
 災害ユートピアという語についてのよくある誤解は、災害義援金などのチャリティや支援を指すという誤解ですが、それらは災害ユートピアと無関係です。それらは真正な社会におけるコモン(共)ではなく、非真正なシステム(あるいは公)のレベルのものです。つまり、チャリティは人々を支援の対象となる無力な被災者にしてしまいますが、「コモン=共」における相互扶助は人びとをそれぞれができることを行なう行為主体にします。後者は、あくまでも真正な社会のレベルに現れるものです。
 ポスト・コロナ社会についての議論においても、この区別は重要です。というのも、多くの議論はシステムのレベルにおける話に終始しがちだからです。もちろん、惨事便乗型独裁のようなシステム改革に対して、民主主義や開かれた科学的議論によって対抗することは必要でしょう。それ以上に、惨事便乗型資本主義に対しては、反緊縮による公的なシステムによる救済をシステムとして求めていくことが、「クソどうでもいい仕事」ではない生存経済を支える仕事をしていたのにロックダウンのしわ寄せを被っている弱者の「経済的な理由による死」を防ぐために必要です。
 しかし、そういったシステムそのレベルの議論だけでは、システムへの依存を高め、システムの支配に利するものになってしまいます。そこでは、人々は救済を待つ惨めで無力な弱者・被災者とされてしまいます。そこで重要となるのが、「コモン=共」による対抗、いいかえれば「共助」=相互扶助による救済という議論です。それによって人々は自治の力を持つ存在として、惨事便乗型資本主義や惨事便乗型独裁に対抗することができるのです。
 この真正な社会における「コモン=共」の重要性というのが、「人類学的視点」というわけです。では、このつづきは次回で。

 

C・ダグラス・ラミス『ガンジーの危険な平和憲法案』を読む

 C・ダグラス・ラミスガンジーの危険な平和憲法案』集英社新書、2009年8月刊
Isbn:9784087205053

 不思議な本でした。
 ガンジーの独立についての構想の異様ともいうべきラディカルさは、今回のこの本ではじめて知りました*1。それだけでもこの本は読む価値があります。ガンジーが考えていた「独立=自立」とは、インドの70万の村ひとつひとつを自立した共和国にするというのですから。
 想像してみてください(ジョン・レノンみたい)。70万の共和国! そのひとつひとつが主権をもちます。たとえ、村が集まって「タルカ」をなし、タルカが集まって地域をなし、地域が集まって州をなし、州が集まって連邦をつくるとしても、州や連邦に権限や強制力はなく、村のために助言と提案をするだけ。あくまでも主権をもった村=共和国が全インドを埋め尽くす。すごい。
 ガンジーは、インドの村の平均人口が400人くらいと言っています[77頁]。インドの1950年の人口が約3億5000万人ですから、ガンジーのいうように70万の村があるとすると、ひとつの村の人口は約500人。もちろん当時でも都市の存在が平均を押し上げていますから、たしかに、村の人口は平均400人ぐらいになるでしょうか。

 この400人という数字がポイントです。このブログの読者ならピンとくるでしょうけれども、ちょうどレヴィ=ストロースのいう「真正な社会」の規模です。つまり、ガンジーは真正な社会を共和国とし、非真正な社会から権力や主権を奪い取り、そのことによって非真正な社会から暴力を剥ぎとって霧散霧消させようと構想したわけです。再びすごい。
 これはたんなる「直接民主主義」の実現や「地方分権」とはまったく違います。400〜500人の、主権を持った共和国ですよ。これは、5万人や数十万人の自治とか地方主権とか直接民主主義とはまったく性質を異にしています。そして、それこそがこの本で紹介されているガンジーの構想のラディカルさのポイントです。

 けれども、ダグラス・ラミスさんは、独立前のインドや明治時代のようにほとんどの人びとが村に住んでいた時代ならいざしらず、農漁村も産業資本主義システムに完璧に組み込まれた現代社会では、ガンジーの村中心の「逆さま国家」の実現可能性はないといい、村の代わりになるのが「市民社会」だとしてしまいます。
 ダグラス・ラミスさんは、「市民社会」を、自分の前著『ラディカル・デモクラシー』から引用して、つぎのように言っています。

 大衆社会とは違い、市民社会は一個の群ではなく、公式および非公式の多様な集団や組織の複合体であり、そこに結集する人びとの目的も政治、文化、経済と多種多様である。[148頁]

 そして、市民社会は、「国家を乗っ取ったり取って代わることをせず、国家と立ち向かい、国家を置き去りにし、国家をコントロールする」[149頁]点で、ガンジーの逆さま国家思想と似ていると言います。しかし、この「市民社会」が「非真正な社会」であるのは明らかです。これでは、真正な社会(これは現代の都市でも可能です)が主権をもって自分たちのことを決めていく*2という、ガンジーの逆さま国家思想*3の本当のラディカルさはなくなり、ただの平凡な「ラディカル・デモクラシー」になってしまいます。

 ガンジーの構想のラディカルさを紹介したあと、そのラディカルさを消去するという意味で、不思議な本でした。

*1:ガンジーの『わたしの非暴力 1・2』(みすず書房)を読んでも分からないですからね。

*2:したがって、国家に立ち向かう必要もコントロールする必要もないし、主権をもつという点で「地域エゴ」ということもなくなります。地域を超えた道路建設とか水利問題とかは、まったく権限のない「州」とかが助言とか勧告をしたりするのでしょうが、意見が一致したときでも、いくつもの共和国(村・ご町内)がお金や労力を出しあって自分たちで建設することになるのでしょう。しかし、意見の相異のあった場合は、外交問題になります! 一つの共和国=村・ご町内も、自分たちの意見を通そうとすることが「外交問題」となると、さまざまな説得と納得の言説を用いなければならなくなるし、内部の400人も自分たちが行うことを自分たちで決めるという主権をもつことになれば、さまざまな意見を言うようになり、その内部でも説得と納得が必要となって、「主権在民」の生きた実地教育の場となるでしょうね。

*3:上の方に行けばいくほど権限や権力がないという意味での「逆さま」です。

レヴィ=ストロース追悼

 レヴィ=ストロースが10月30日に亡くなったというニュースが今朝はいってきました。コメントでもそのことを書かれた人もいましたね。去年11月に100歳の誕生日を迎えたときも寝たきりになっていたので、ああやっぱりそうなのかという感想でした。「祝 レヴィ=ストロース100歳の誕生日」を書いてから1年もたたないうちでしたね。
 共同通信社から追悼文の寄稿を依頼されましたが、短時間で(もちろん予定原稿なんか作っていませんからね)、しかも原稿用紙3枚ぐらいだと何も書けない感じで、いちおう寄稿しましたが、新聞向けとは思えないものとなりました(依頼した方も、時間がないので、しょうがねえなあという思いで配信するのではないかな)。
 いま、その改訂増補版を書いているところです(まあ、代打で三振したあとにベンチ裏で素振りしているようなものですが)。これくらいの枚数だとすこしはましなものを書けたのになという思いで、加筆したものを以下に載せたいと思います。素振りっぷりを観賞してください。

 10月30日に100歳で亡くなった人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、20世紀最大の知的革命であった「構造主義」を主導したことで知られている。
 レヴィ=ストロースがその著書『野生の思考』(1958年刊)のなかで行った、当時の知的英雄のサルトルへの批判で一気に注目されるようになった構造主義は、それ以前の知的潮流である現象学実存主義と違って、哲学者だけによるものではなく、広範な学問分野を巻き込んだものだった。それは、サルトル実存主義を含めて、西洋の思想が囚われていた「歴史主義」に対して、「野生の思考」から根本的な批判をしたものだった。
 彼の構造主義が疑問を投げかけたのは、いまも私たちのなかにのこっている「歴史は進歩する」という信念と「個人の能動的な主体性」という価値観に対してだった。
 そのため、構造主義は、歴史や人間の創意を軽視したものだとか、人間を構造の檻に閉じ込めるものだとか言われた。しかし、それは、構造という概念への誤解と、西洋近代が創りあげた価値観にとらわれているための誤解によるものといえよう。レヴィ=ストロースによれば、歴史の進歩という信念は「歴史によって自らを説明することを選んだ」西洋近代の文明でしか意味をもたない信念だ。構造主義が歴史を軽視したという批判は、それが歴史主義によって自らのアイデンティティを創りあげた西洋近代への根本的な批判だったことを理解しきれなかったことからきているといっていい。
 また、「構造の檻」などというとき、なにか建築の構造や社会構造のように固定された客観的実体ととらえてしまっているように思う。けれども、構造主義の構造はそういったものではない。なぜレヴィ=ストロースが誤解されやすい「構造」という語を用いたのかということを説明するためには、彼がその「構造」というアイディアを得た1940年代初頭のニューヨークに話をもっていかなくてはならない。
 レヴィ=ストロース構造主義は、1950年代のパリではなく、1940年代のニューヨークで生まれた。1941年にアメリカに亡命したレヴィ=ストロースは、翌年にローマン・ヤーコブソンと出会い、構造言語学の音韻論を学んだ。そこから、レヴィ=ストロースは「無意識のうちに働く二項対立群」というアイディアを引き出す。また、彼が「変換(変形)」の概念を学んだという生物学者ダーシー・トムソンの『成長と形態 第二版』は1942年に出版されており、これもニューヨークで読んだ可能性が高い。そして、学位論文である『親族の基本構造』を書きあげたのもニューヨークであったが、そのなかの分析のために、同じく亡命中だった数学者のアンドレ・ヴェーユ(シモーヌ・ヴェーユの兄)を訪ねて、数学的構造主義の教えを請うたのもニューヨークにおいてだった。ニューヨークという街でのいくつもの出会いが「構造」というアイディアを形作ったのだ。
 その「構造」という概念を理解するうえで重要なのが「変換」というアイディアである。レヴィ=ストロースのいう「構造」は、同じく要素と要素間の関係からなる体系(システム)とも違っている。体系は変換が可能ではなく、体系に手が加わるとばらばらになってしまうけれども、構造は、要素や要素間の関係が変換して別の体系に変化していっても、なお変わらない何かを指している。変換によって現われた新たな体系ともとの体系のあいだの関係が構造だといってもいい。つまり、構造は、変換を通じてはじめて現れる。別の変換をすればまた別の構造が出現するのである。それには始まりも終わりもない。
 このような構造という概念をみれば、構造主義が人間を構造の檻に閉じ込めたという言説が意味をなさないものだということがわかる。むしろ、レヴィ=ストロースは、変化しながら多様性を生成する構造の「連なりの場」へと人間を解き放ってくれたといったと言ったほうがいい。
 そして、この構造という見方からすれば、人間の創造力は「連なりの場」にあるものとしてとらえられる。「連なり」から切り離された個人の能動性に重きをおく西洋近代の価値観とは違って、それは、他人から与えられたものに、その他人の意図とは別の新たな様相を与えていくような創造性である。レヴィ=ストロースは、そのような人間の創造性を分析する手立てを、現在翻訳が刊行中の『神話論理』全4巻として遺してくれた。
 私たちはいまだに近代というただひとつの文明のみに適合している。そのことは、構造主義からポスト構造主義へという知的潮流(それは西洋哲学への回帰でもあった)が人びとからあたかも「歴史の進歩」のようにとらえられていることからにも示されている(実際には、ポスト構造主義も「歴史主義」の終焉を共有していたのだが)。そこでは、人と人とが具体的に関係しあい包括的に理解しあう「連なりの場」(レヴィ=ストロースはそれを「真正な社会」と呼んだ)から私たちは切り離され、そのために多様な創造性をもっていた「野生の思考」は均質的な「栽培された思考」となってしまっている(もっとも、レヴィ=ストロースは1968年のあるインタヴューで、いつのも悲観主義を引っ込めて、インターネットを予言していたかのように、「マスコミュニケーションの新しい諸手段が、いわば『野生の』状態で生まれてきている」ことに期待し、その「新しい諸手段」が文化を均一化しようとする傾向をもつことは確かだが、それが「一方向にのみ働きかけるのではない」こと、そして今日の若者が自分自身の文化を、両親の世代の文化とはまったく異質のものとして作り上げることを可能にするのもマスコミュニケーションの諸手段なのだと述べていた)。そのような現在、「ただひとつの文明に適合」することが、人類の多様な創造性を見えなくしてしまうのだということを示してくれたレヴィ=ストロースの人類学の真価は、ようやくこれから認められていくに違いない。

池内了『疑似科学入門』を読む

 学部のゼミのM君がゼミ論文のテーマを「疑似科学と呪術」とするというので、ゼミで発表してもらいました。その発表のなかで、「疑似科学」とは何かということを説明するのに、M君が池内了さんの『疑似科学入門』のなかの分類を批判的に紹介してくれたのですが、「ん?」という疑問符でいっぱいになったので、早速この本を注文して読んでみました。その結果、頭の中の疑問符はもっと増えました。

 私は、疑似科学似非科学ニセ科学)というものは、「マイナスイオン」とか「ゲーム脳」とか「電磁波の害」といった、「科学を装っているが科学的方法に基づいていない言説」のことを指すのかと思っていました。しかし、池内さんはそう思っていないようです。この本では、疑似科学を3つに分類しています。

《第一種疑似科学
 現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけこみ、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。これには占い系(お御籤、血液型、占星術、幸運グッズなど)、超能力・超科学系(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、「疑似」宗教系がある。主として精神世界に関わっているのだが、それが物質世界の商売と化すと危険性が生じる。……
《第二種疑似科学
 科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。これには以下のようにいくつかの種類があって、物質世界のビジネスと強く結びついている。……
(a)科学的に確立した法則に反しているにもかかわらず、それが正しい主張であるかのように見せかけている言説。永久機関ゲーム脳が典型的……
(b)科学的根拠が不明であるにもかかわらず、あたかも根拠があるような言説でビジネスの種となっているもの。マイナスイオン、健康食品などがある。……
(c)確立や統計を巧みに利用して、ある種の意見が正しいと思わせる言説。……各種の世論調査も使いようによっては疑似科学になってしまう。また、月齢と交通事故の相関など、見かけ上の相関関係を因果関係として安易に結びつけ、事実誤認させる方法もある。……
《第三種疑似科学
 「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの。この場合、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロとかクロに決めつけてしまうと疑似科学に転落してしまう。……環境問題や電磁波公害のほかに、狂牛病、遺伝子組換え作物、地震予知環境ホルモンなど、今社会的な問題になっていることの多くがこの範疇にはいる。
[『疑似科学入門』v-vi頁]

 先の定義にしたがえば、「疑似科学」は、この分類の《第二種疑似科学》の(a)(b)のみとなりますが、池内さんの分類では、「疑似科学」というカテゴリーは、何でも入れることのできるジャンク・カテゴリーになってしまっています。
 まず、《第一種疑似科学》ですが、そもそも「科学を装って」いないのですから、「疑似科学」や「ニセ科学」と呼ぶ必要性がないでしょう(後で科学者にとっての必要性には触れましょう)。警官でもないのに警官を装っている場合には「疑似」とか「似非」とか「ニセ警官」と呼ぶでしょうが、警官を装っているわけではない人を「ニセ警官」とはふつう呼ばないでしょう。「占い系」に入る「占星術」や「血液型性格診断」を念頭に置いているのかもしれませんが、占星術は近代科学以前のときにはもちろん「科学を装う」ことなどありませんでしたし(「真正科学」がないのですから「疑似科学」もありえません)、「血液型性格診断」はそもそも「占い」ではありません*1
 《第一種疑似科学》を疑似科学と呼ぶことについて、池内さんは、つぎのように言っています。

 第一種疑似科学とは、人間の心のゆらぎにつけ込む「まやかしの術」である。「科学」と名付けるのはおこがましいのだが、心理学の対象と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう。[3頁]

 「心理学の対象と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう」というのは意味不明で、何か日本語の書き間違いかと思ってしまいました。「心のゆらぎにつけ込む」第一種疑似科学は心理学の対象だという意味でしょうか。でも、なぜ科学や学問の対象だと、「科学」と名付けて構わないのかさっぱり分かりません。カマキリの擬態は生物学の対象でしょうけれども、誰もその擬態を「科学」や「疑似科学」とは呼ばないでしょう(「まやかしの術」には違いないけれども)。

 占いについて、池内さんは、「迷信」としながら、「そもそも自分の生き方を省みる方がもっと大切だと思われるのに、運命を自分に付随する事物に転化させようというのだから問題が多い」[4頁]と書いていますが、なぜ人類の文化に「占い」があり、科学によっては駆逐されないのか、人はどういう動機で「占い」に行くのかを調べて考えることなどしようともしていない点で、「疑似科学社会学」を目指している*2わりには「問題が多い」と思われます。「自分の生き方を省みる」ことで解決するような問題であれば、占いに行く必要もないでしょう。そして、運命を何かに転化するのも、それが他の手段では解消できない難問をかかえて生きていくために必要だからでしょう。
 百科事典で「占い」を引くと、

通常の知覚や合理的な推論によっては認識できない事がらに関して,一定の〈しるし〉を解釈することによって情報を得る方法。
 占いによって明らかにされるのは,現在や過去の隠れた事実,未来のできごと,個人の運命や行おうとしている行為の是非などであるが,実践的な判断を下すことを迫られている個人や集団のために行われるのがふつうであり,答えられるべき問いは,実践的かつ個別的である。……『世界大百科事典 第2版』(阿部年晴執筆)

とあります。つまり、人類学的にいえば、占いとは、「実践的かつ個別的」な難問についての解釈を求めるものです。
 一方、池内さんが書いているように、「科学の法則は、ある特殊な状況のみで成立するのではなく、普遍的な条件下で一般的に成立することが示されなければならない」[21頁]ものです。逆に言えば、科学の法則では、一般性しか言えません。ある悲惨な飛行機事故で、出張にでかけた息子が死んだとき、科学では、どのように(how)事故が起こったのかという原因を一般化された法則によって解明していくことはできます。それは、もう一度同じような事故を起こさないようにするためには必要なことです。しかし、なぜ息子が他ならぬその飛行機に乗ってしまったのか、他にスタッフはいるのになぜ息子が出張にいくことになってしまったのかという、なぜ(why)に科学はなにも答えてくれません。そのような単独性の出来事に解釈を与えるのが占いなのです。
 池内さんは、迷信や占いが「偶然の一致を過大評価してしまう」という特徴をもつと言っていますが、過大評価というより、そもそもその「偶然性=単独性」に解釈を与える装置なのですから、あたりまえです。それが科学ではないと非難しても、そもそも「科学を装って」いるわけではなく、科学とは異なる機能をもつ装置なのですから、非難するほうがおかしいでしょう。看護師に対して、「あなたは警官ではない、警官の役割も果たしていない」と非難して、「ニセ警官」呼ばわりをしているようにみえてしまいます。

 もちろん、「占い」を犯罪に利用する人たちもいますが、それは警察の取り締まりの対象であって、占いだから有害だということではないわけです。
 でも、池内さんは、「占い」自体に害があると考えているようで、「最も憂えることは、自分の頭で考えるのではなく、(神仏や人からの)ご託宣を何の疑問も持たずに受け入れてしまう体質になることである」[22頁]とし、次のように書いています。

その行き着く先は、観客民主主義が政治的に利用されファシズム導かれていく方向だろう。偏ったスローガンばかりになっても占いと同じで、それを疑うことなく信じてしまうのだ。今の日本がそのような道を歩みつつあることを強く危惧している。そこに疑似科学が片棒を担いでいるのではないだろうか。[23頁]

 占いは犯罪に利用されなくても、ファシズムの片棒を担ぐから有害だというわけです。ナチス疑似科学とは親和的だったし、科学的思考でファシズムを防げるといいたいのでしょうけれども、その言いかたは科学的ではありません。たしかに、観客民主主義もファシズムもオカルトや占いも、社会が孤立した人びとを大量に生みだしているからだといえるかもしれません。しかし、それと「ファシズムの片棒を担ぐ」こととは違います。ここには、池内さん自身がいう「みかけの相関を因果関係にしてしまう」疑似科学の方法と同じ方法が使われています。池内さんは、「平均寿命の伸びとクルマの保有台数には相関関係はあるが、これは直接の因果関係ではないことは明白で、所得の増加という共通原因があるためだ」という例を出していますが、それを言いかえれば、「ファシズムと占い=オカルトブームには相関関係があるが、これは直接の因果関係ではなく、その相関は個人の孤立化という共通原因があるため」ということになります*3

 さて、「第一種疑似科学」という分類の問題点だけで、十分長くなってしまいました。最後に、なぜ池内さんが、このような分類をして、まったく異なったものを「疑似科学」に放り込んでしまっているのかということを問題にしたいと思います。このようなジャンク・カテゴリーは、「オリエンタリズム」のようなアイデンティティ・ポリティクスにはよく使われるものです。つまり、自分にあると認めてしまったら自分のアイデンティティを確立できないようなモノすべてを、他者のカテゴリーに放り込んで、自分を純粋化するというものです。それは、「未開 primitive」というカテゴリーにも見られました。アフリカのネイティヴや東洋人や女性や子供、労働者階級や下層民、精神障害者や同性愛者など、なぜ一緒なのかと思うようなさまざまな人たちが「未開」というカテゴリーに放り込まれましたが、それはブルジョワ白人成人男性が「能動的で理性的で進歩的な自分たち」というアイデンティティを作り上げるためでした。
 同じことが、科学者による「疑似科学」カテゴリーの創出にもいえるような気がします。科学者としてのアイデンティティを純粋化するためという理由だけで、「第一種疑似科学」のような科学を装っているわけではないものまで「疑似科学」「ニセ科学」というカテゴリーに入れてしまうのではないでしょうか。そして、自分たちより低位のそのカテゴリーに属するものは自分たちがコントロールすべきだという態度(「未開」に関して言えば、それが植民地主義の態度です)も、このアイデンティティ・ポリティクスで説明できるでしょう。

*1:「血液型占い」といった題名の本がありますが、それは「占い」ということばの誤用でしょう。

*2:池内さんは「あとがき」で、「本当は『疑似科学社会学』としたかったのだが、社会学に関して素人の私だから、そう名付けるのはおこがまし過ぎるというものである」と書いています。

*3:ファシズムと占いに実際に相関があるかどうかはまた別の問題ですか。